ゆるみと緊張
東京にいると、某地方都市で漂流生活しているときに通奏低音のようにずーっとかんじている重だるい悩みとか、いったいなんだったんだろう、ってくらい、すべてがどうでもよくなる。そんなもの、もともと存在してなかったかのように。
ひとことでいうと、東京は、開けている。開けていて、楽だ、と思う。
それは、東京に住んでいる人は地方にたいしてみなオープンマインドで無条件にすばらしいとかそういう二極対立的な話ではなくて、
地域性というかその土地としてのスタンス、気質、風、みたいなそういう目に見えないところのかんじだろうか。
いま、調布のカフェにいるのだけれど、たとえばここは、店員さんもお客さんもその地に根ざしている人もいない人もごちゃまぜになっていて、みんな、常に外からの目がある、見られている、という潜在的な緊張感を持って、その「場」にいる、という共通点を共有している感じがわたしは好きだ。
もちろん思い思いの時間を過ごしたり、それを提供する人がいたり、役割やふるまいは人それぞれだけど、
外からの風はあるし、その変化が常にあるのは受け入れますよ、受け止めますよ、という暗黙的社交さや、緊張感が、そこにいるひとりであるわたしにとっても、心地のよい場だと思わせてくれているのではないかと思う。
地方都市だと、その緊張感は、その地に根をはればはるほど(はることも、なにかを守り続けることも、大事なことのひとつなのに、なぜなのか)なくなるばかりか、どんなにそれでもしゃんと、凛と、しようと背筋を正そうと意識しても、人はやはり、弛緩し、のびきったゴムのようになってきてしまう。
東京サバイブ女子まっただなかだったときは、心を癒しにいく場所はもっぱら緑の多い田舎だった。田舎は、わたしの都会的生活を送るはりつめた心とからだを、心地よくもみほぐしてくれたのだった。
だけど、都会サバイブ女子をやめて、住んでみたらどうだろう。周りはすべてが弛緩して、伸びきっていた。伸びきったゴムをさらに伸ばしてもこれ以上どうしようもない、身もふたもないような感じが、そこにある停滞した空気をあらわしているようでもあった。
はりつめているから、ゆるみたくなる。
だけどもう、ゆるみしかない場所では、わたしはゆるみを必要としなくなるんだなあということに、そこに身を置いて気づいた。
生まれたときから当たり前のように、ゆるみと弛緩のなかで育った人たちが、ますます同じ場所で、さらにゆるんで弛緩してしまりがなくなっていくのに溶け込むことは、わたしにとって、塩で溶かされたなめくじになっていくみたいに、
なにかが、なにかがわたしはこの人たちとは決定的にちがって、
はっきりとはいいがたい、
だけど分かちがたい、
分かち合いたいけど、
ごめん、
そのわかり合うという人間的にうるわしい行為が、
わたしにとっての塩で、溶けちゃうんだよ、苦しい、だから、これ以上、塩をまぶさないで、
塩?いいじゃないか、いくらでも持ってけ持ってけ、やるよ
ありがとう。気持ちはね、ずっとずっとうれしいんだけど、うれしいんだけど、塩はね、溶けちゃうんだ、わたしが
溶けるわけないだろ、お前はナメクジじゃなくて、おれたちの仲間だ、人間だ
うん、そりゃわたしも人間になりたい、みんなと仲間でいたい。だけど、自分でもいやだけど、ほんと、これ以上、塩をまぶされると、溶けちゃうの。もうやめて、つらい……
そんな会話が脳内で繰り広げられて脱線してしまったけれど、
ようするに、ゆるみとはりつめのバランスなんだなあ、っていまは思う。わたしにとって。
冒頭の、東京は開けてる、って話も、それは、居場所が包み込むやさしさと、開放&緊張感のバランスが、自分にはちょうどいい、ってことなんだなあと思う。
ゆるみきってしまった先には、そこには相手への無遠慮な介入と、甘えと、共依存しかないような恐れがわたしにはある。
「家族」はきっと、ゆるんだり弛緩したりが安心してできる場所なのではないかというイメージがわたしにはある。自分は緊張しっぱなしな場所でしかなかったから、より、そう理想化してしまうのだろうけど。
きっとそれがあってこそ、外に出るときは外の目を適度に意識して、緊張感を持って、メリハリがもてて、またゆるめる場所に帰ってきたり、恋しくなったりっていうのがあるんじゃないかなとわたしは思う。
だけど、外も弛緩してのびきってしまってたら……と思うと、そんなメリハリのない世界は、のびきったゴムのような地獄じゃないかとわたしは思う。
人のゆるみきった姿を、特別な人でない限りは、わたしは見たくない、というか見せられたくない。
ふと彼の見せる、リラックスした表情や、眠そうな目にはっと心を奪われるのは、
ふと、彼女と打ち解けられたのかなと感じるよろこびは、
そこが完全にゆるみきっていない場所で起こっている奇跡的な出来事だから。
その場所とのギャップに、人は意外性や、その隙間から好感や興味が生まれるのではないかと思う。
日常がゆるみ、弛緩は、楽だけど、腹見せしちゃえばおならもうんちもおしっこもおなかのぜい肉もへったくれもなくなってしまうのだけど、そこになにが残るのか、やっぱりわたしには、いまここを心地よいと感じているからか、わからない。
家に帰れば、近くにはとてもすてきなお気に入りの公園があるというのに。まだ東京サバイブ女子としてがんばってる女子3人と昨日女子会していろいろ話したからか分からないけれど、彼女たちがサバイブするために、よそ者同士であるゆえにたのしくあらゆる「シェア」社会を仕事とはまた別に中央線の西のほうの地域社会でゆるく楽しみながら生き抜いているのにたいして、
わたしは、世界の太陽を、風を、空気のおいしさを、雪の美しさを、ひとりじめしているのではないか、醜くあさましいのではないかという罪悪感を感じてしまった。
それは、自分が嫌悪する、まるで家族的な、閉鎖的で、密室ゆえに、あらゆるものをむき出しにして奪い合い、焼き尽くし合い、それを美とするような、そこには甘えと堕落と依存しかないような、発展性のないような、まさに軽蔑、嫌悪する家族的なことを、わたしはひとりだろうが、家族がいようがいまいがきっとわたしは、家族という無防備さを嫌悪しながらも、家族的にこのまま姿をどこかへ消して透明人間になってさえも、その透明人間さを無防備にむき出しにさらすのではないかとぞっとする。
適度なバランスも緊張感も、度を超すと過剰な「シェア」の押し付けとなり、わたしはその過剰さに都会にいるときはいたでその虚しさや、結局はそこから逃げて引きこもっていく自分にいやけがさして、もうこれ以上逃げ込めない場所に逃げ込んだ。だけどこんどは、その逃げ込んだ場所から逃げる方法や言い訳をわたしは探して、どこまでも当事者回避にいそがしい。