緊張ちゃんとゆるみちゃん

ツンデレ隠居系女子の日記/東京→北東北に移住4年目

しがみつくこと

肌になじむように、また、胸が張り裂けそうになるくらいに好きなまち新宿にいまいる。

 

高円寺まで行っちゃったら、もうまた永遠に帰ってこれなさそうになる気がするから、あえて新宿止まりにしているのかもしれない。

 

それでも新宿でも、昨日もだけど、さっきルミネのエスカレーターで、ギターを背負った中年に差し掛かったおじさんとすれちがった。

 

夢がやぶれたのか、もしかしたら現役で超有名なギタリストなのかはわからない。勝手に夢破れた大人と決めつけてしまうのは早いかもしれない。

 

だけど、きっと、おそらく、夢破れたギターをせおった中年の、たぶん、夢を追い続けたまま少年時代から髪型を変えられないでいるようなそのちぐはぐなギターを背負ったおじさん少年を、昨日と今日でわたしはたぶん5人くらい見た。

 

地方都市には、そういうおじさんを見かけることはない。見るとしても、軽音楽部かなんかだなとわかる、女子高生が電車に乗り合わせたり、駅ビルでうろうろしてたりする。だけどこの子たちはきっとわたしは、10年後もギターを背負っていないだろうとかんじる。この子たちは、「夢破れる」という言葉の意味を実感しないまま、休日、家族なかよくイオンモールのフードコートで子供と一緒にマックを食べてるような光景が、霊能者じゃないけど浮かぶ。

 

ギターを背負ったおじさんを見ると、ああ、東京だなあ、と思う。高円寺とかあのあたりはもっと、夢を追いかけ続けて中年になった人が、当たり前のようにいる。あのエリアだから、夢を追いかけられるような気がする。

 

地方都市で夢を追いかけ続けたのかよくわなからないまま中年になった人は、実家にひきこもる中年ひきこもりか、中年ニートとして、家族や地域社会や社会全体からもうとまれ、深夜のゲオかロードサイドのブックオフでバイトをしてたりするかんじ。

 

自分がロック少年ではなかったけれど、わたしはその自分の想像が進んでいくことがこわくて、高円寺を去った。そこだけでゆるされていることに気づかずに中年になっていくのがおばけのように怖くなってきて。そして勝手に自分がそんな成れの果てになると自分で自分の呪いをかけて苦しめた。

 

だけどさっきすれちがった夢破れたギタリストのややロン毛の中年とすれちがったとき、わたしは彼の姿を振り向いてずっと見つめていた。見えなくなるまで。

 

背中にぴったりとくっつけられたギター。黒い袋に入れられたそのギターは、彼の存在そのものだ。たぶん、彼はそのギターとともに人生を送ってきたのだろうと。その姿はまるで、ギターにしがみついているような、あるいは、ギターにしがみつかれて離れられなくなってしまっているようにも見えた。いずれにしても、彼はそのギターと、もしくはギターが彼と、一体化している、という事象がそこにはあった。

 

そのみすぼらしい、みっともなくもみえる、かつて自分が思い描いた成れの果てへの未来予想図の恐怖ともいえる姿を見ながら、わたしは、そんなふうにしがみついたものはあっただろうかと思った。そんなふうに、みっともなくしがみつけたものって、なにかあっただろうかと思った。

 

しがみつくのはみっともない、それを執着と言ったりする。だけども、なにもしがみつかずに手放して手放して手放した末に、玉ねぎの皮はぎゲームみたいになってしまったいまのわたしはじゃあ、みっともなくないのかといったら、どっちがみっともなくて、どっちがみっともなくないとか、まったくわからなかった。

 

それに、そんなこと言っても、わたしがなにもしがみついていないかといったら、うそになるし。

 

自分にとってギターのようななにか。重い、肩が凝る、もう放置して逃げ去りたいなんていわずに、ちゃんとギターのようなものをわたしはちゃんと背負って歩いてみるのも、ちゃんとやってみていいのかな、って。人にしがみつくと大変なことになるけれど、ギターはきっと裏切らない。