緊張ちゃんとゆるみちゃん

ツンデレ隠居系女子の日記/東京→北東北に移住4年目

愛とか恋とか

はてなをまた新しいのにして書いたからか、いろいろまた翻弄されて、いらいらしてしまった。
常にいらいらしている気がする。
自分は昔から全然かわっていない。
常に機嫌が悪くて、いらいらして、人をのろっている、全世界をのろっているのではないかと思うことがある。
それでも、いらいらしながら、いつもの公園にいって、ラジオ体操してちょっと走って歩いたりして、気が紛れなかったけれど、それでも横ばいくらいに維持できているのは、まだましなほうなのだろうか。

 

お昼を作って食べたけど、味がしなくて全然おいしくなかった。食がすすまなかった。
明日東京だから、どきどきしてしまっているのだろうか。
食べながら、ソルのギター曲を聴きながら、涙が出てきた。
母のことや、Aさんのこととか思い出して。うわっとフラッシュバックしてきてしまう。まだ全然生々しい。奴隷時代はとっくに終わったはずなのに、まだ生きているのだろうか。
そんなとき、自分は幸せになんてなれないと思ってしまう。

手や足を出す気持ちや自信すら、奪ってしまう、沼に引きずり下ろされるような感覚をおぼえてしまう。
たぶんどんないいことがあって、それを喜びと感じられる心がないならば、なくても同じだ。それはとってももったいないことだと思う。だけど自分では頭では分かっていても実際にはどうすることも、まだできないようだ。まだ癒えていない、そんなかんじ。

 

かかわる人でいやになる人って、すべてがすべて、母のおもかげ、口調、姿形、すべてが重なって、自分から去ってしまう。声も姿形も、エゴの醜い形も、そっくりだと思う。こわいし、彼らはばけものなのではないかと思ってしまう。
「野垂れ死んでやる」とか、「自分の始末は自分でするから」、とかそんないやみったらしくて恩着せがましくて罪悪感をあおることを娘に言って聞かせる。なにそもそも初めからやってもらえる前提でいたんだろうとわたしは思う。その前提を疑わないおめでたさも、自己愛が強くて見習いたいくらいであると同時に、気持ち悪いなあと思う。

 

Aさんとは、断ち切ると決めてから、わたしはいろんなことが変わってきた。Aさんとの関係性についても、相手にとってのわたしという視点ではなくて、「わたし」の視点として記憶を検証し直す作業が進んでいる。
そうやって、何度も何度も、同じことをばかかと思うくらい反芻して思い出すという端から見れば進歩のないことをしながら、記憶の整理や認知の方法をブラッシュアップさせていって、自分なりに「正しい」歴史教科書みたいなのを作っていくイメージなのかなあとおも思う。

そのプロセスで、恋とか愛とかって、いったいなんだったのかなと思ったりもした。わたしは誰にも恋もしてなくて愛もしてなかったのではないか、恋も愛もなにもしらない白痴だったのではないか、とか、わたしは誰とも付き合ったことなんてなかったんじゃないか、みたいなゼロか100か思想みたいにもなってしまっている。そう極端なことはありえないだろうけれど、そのように思えてしまう。

これまで殻におおわれて守られていた、殻の中の「わたし」として、「わたし」の目から初めて涙が出た。それで、しらすとちぢみほうれん草のビアンコパスタが、途中で喉を通らなくなってしまって、もったいないけど残して捨てた。

初めて自分は、こんなにみじめでつらい目にあってたのだと思った。気付よばかか、ってレベルで。

これは、つらい、ということなのだな、と思った。「つらい」ものは、自分を傷つけるものだから、相手がわたしを「上司」という立場で支配したいという欲望に基づいた、だけど好意的に見えるものに対して、わたしは避けてもいいし、自分を守ってもいいんだと、「わたし」は最近、実感を持って学んでいった。自分の心を、体と、自分の命を守ることは、大切だな、と。
いまやっているのは、そういうこと。だから、つらくなるようなことがあって、当たり前だ。そんな時間は、生きていくうえできっと必要だ。別の仮面(キャラクター)になることで麻痺させてた分、丸腰になったとき、つらくもなる。

 

公園を歩きながら、このまま雪で凍った沼にすべりおちてずんずん入っていけば、凍死して死ねるなと思った。また、沼の奥のほうに進んでいく途中で、誰かに助けられてわたしは病院に搬送されれば、また頭のおかしい人として入院することができる、そうすればつらい現実からまたしばしの間、フェーズが変わってまたそらすことができるのではないかと思ったりした。
そのまま死んでしまうというよりかは、わたしは誰かに助けられたいのだなと思った。誰かに途中で助けてもらうのがポイントで、どこまでもわたしは人だのみだ。沼で凍死計画も、途中で通行人に助けてもらえるという確証も持てなければ実行に移せない自分はとてもチキンだ。けれども沼はわたしを、いつも引きずりおろそうと、ぎろっとした獲物を狙うような目つきをしているように見えるのだった。


また、「猫を殺しました」と主治医に言ってみるゲームの妄想をしたり、空き家をぶっこわす妄想をしたりしたけど、ここでなにをやってもむなしくて、現場を取り押さえられてもむなしい限りだと思ったりした。

結局は、誰かに助けを求めて弱者にでもならないかぎり、こんなところでなにをしでかしたところで、おそらく誰にも見つけられずに、さらにむなしくなって、同じ家に帰るだけだ。

なにをしても、なにをわめいて叫んでも、もう誰にも声が届かないところまでわたしは来てしまった。誰にも見つけられない。なにをしても、しなくても。答えはただ、風の中。