緊張ちゃんとゆるみちゃん

ツンデレ隠居系女子の日記/東京→北東北に移住4年目

旅のりゆう

詩人の銀色夏生さんのインタビュー記事を読んだからなのかわからないけど、なんとなく、この先自分も、そんなに大きく変わったり、劇的に自分が変わりましたーなんてことはないよなあと思った。


というかそんなこと当たり前で、朝は新しく生まれ変わるなんていっても、昨日は今日の地続きで、ずっと同じ人間が中の人をやってるわけだから、そんなしょっちゅう人が「変わる」なんてことはあるわけないことは分かっていた。


だけど分かっていながら、ひそかに「変わる」ことを期待しているから、劇的な変化をほんとうは誰よりもあさましくのぞんでいるから、わたしという人間はやっかいで、相変わらずもがいてる。

 

だけど、さいきん、戸惑う。

 

これまでの文豪とよばれるたちが、いっしょうけんめい理屈をこねて、最後は吐血したり切腹とかしたりしながらなにかとたたかい、あらがってきて、それが彼らの生きる証であり、難産の末の子供だったり、血と涙の結晶だったり、それが表現としての昇華だったりしたものが、


そして、わたし自身、これまで重くて分厚い鎧を着て、また着せ替えたり忙しくて、だけどいつも肩の力を入れてがんばってきたものが、

 

ある人の(その「ある人」だから、またそのときの自分の状況やこれまでの思いもあって響いたのかもしれないけど)なにげない、ある文脈のなかでわたしに語られたたったひと言、「人って変わらないと思うんですよ」というせりふによって、
これまでの家族との関係のことを含めてうちひしがれてきたわたしの悩みとかが、

その人との出会いによって、そのひと言によって救われたというか、

それにつきることのように思えてきて、

じわじわとだけど、わたしの心は確実に、氷塊していっていることに気づかされて、

 

これまでがんばったことが、これからもがんばろうということでもあって、それそのものが人生で、それがわたしの目標でもあったのに、

これからどうすればいいんだと、ひゅるひゅるとわたしという風船がしぼんでいくような、骨抜きになってあれまあ、というようなそんな感じなのです。

ましてやなんかもう、切腹する必要なんて一切ないですね。

 

それからというもの、その人の脳の回路とわたしの回路は交信されたように(自分で勝手に思いこんでいるだけだけど)なって、プラグがつながれた状態になって、
そういったこともあってか、

その人にたいして、事実を別にそれ以上にも以下にも伝える必要性とか、もともと自分は「事実」を取り扱う仕事をしていたからそれについては慎重なくらい厳しくてアスペだった。


それでも、「事実」を「事実」にこれまでだってちゃんと伝えているつもりでも、

これ以上に淡々とした表現なんてないはずだと思っていたことすらも、

その「事実」だったり「淡々さ」そのものすら、肩の力が入っていたことに気づかされた。

 

事実をさも事実らしく伝えようとか、淡々さをより淡々と受け手がとるように、淡々として語ろうとかいう力みを。


純粋なんてものは完全にあり得ないのは分かっていたけど、より純度が高いと自分が思い込んでいたものを目をこらして見てみると、こんなにもたくさんの不純物が紛れ込んでいたのか、と気づくようなかんじ。

 

そんな心境の変化がここ数ヶ月であって、わたしは戸惑いを感じている。それがいいのか分からない。だけどぐんぐん変わっていく体をどうすることもできない第二次性徴のときのようなかんじ。

 

それは、その人と出会ったのがきっかけなのか、それとも自分にいろんなことがこれまであったことで、その機がたまたま熟すなりはじけるなりしたからなのか、たぶん、そういう複数の要素が重なってそうなったということがいちばん近いと思うのだけど、
そうした凝りが少しとれて、わたしは、これまでずっと会いたいと思っていたけれど会えないと思っていたお世話になったある人に、また会いにいくことができた。会えないと思っていたときのおそれはそこにはなかったというか、消失していた、という言い方がしっくりくるような気がする。

 

「事実」は「事実」であって、人がほんとうの意味ではなにも変わらないということも、これまで頭では分かっていた。同窓会とかで、「変わったよね」と言ったり言われたりする人がたまにいるけれど、そういうものに白々しさを感じていた。


だけど、いい意味でも悪い意味でもなく、ただ目の前の相手にたいして、ジャッジするでもなく、「人って変わらないと思うんですよね」と、その人が自分にたいしてなのか、ひとりごとなのか分からないところで、

だけど、その空間にいる自分もその人に包まれていると思えた瞬間、

頭の中や自分のなかだけでこれまでたたかいながら、そう言い聞かせてきたたこととは、まったくちがう一体感や安心感がそこにはあった。

 

わたしはそれを味わってしまった……。知ってしまった……。

 

これまで本を読むのは、書き手によってそれぞれ行き先はちがっても、そうした自分なりのなんらかのことに気づくための旅を一緒に味わっている気がしたり、似たようなところに悩んだりしてるんだなと気づかされる、支えや友達のような意味合いがあった。

 

だけど、頭の中ではない、リアルに安心感や一体感をそこの部分で感じられてしまったいま、

わたしにとってそこが旅の終着点だったんだなと気づいたとともに、同時に、旅をしていたときはそこがどこに向かうかすら分からなかったから、それを探すために旅をしたいと思っていたというのに、
わたしはもう、旅をする理由が分からなくなってしまった。これからどう進んでいいのか、いま、分からなくなってしまった。

 

これまで、書いても書いても、自分の書いたものはいやになって、すぐに消去してしまうか、最近は「これまでのことはもうすべて忘れちゃった……」「過去のことだし……」というくらい、ほんとうにそこから記憶がすっぽり抜け落ちて、どうでもよくなってしまうのだ。

 

だけど、作家なり、そのほかの人は、自分の手がけたものを、いつまでもまるでそれを自分の子供のように大切にすることができる。一時的にそのことが頭になくても、「過去」を目の前にひっぱり出すことができる。

 

このちがいはなんなんだろうと、ふと、けっこう考える。かなり自分にとって悩みだ。これは自己肯定感が低いからなのか、自分のしたことに常に自信がないからなのか、自分が好きじゃないから、自分が嫌いだからか……などなど。

 

だけどいまは、いくらもっともらしい理由を考えたってしょうがないと思う。たぶんそういうところもわたしは変わらないだろうと思えるから。

 

自分にそう思えるようになってから、家族にたいしての思いも変わった。

 

家族に変わってほしいと、また、自分も変われるはずだと思うと同時に、

それとは相反して、人は変えられないし自分だって変えられるわけないだろう、なにを寝ぼけたことを言ってばーろー、と両極端のことを同時に思っていたころは、

ずっと苦しかったし、自分にも家族にも言い表しようがない後ろめたさもあった。


だけど、まず自分が、いい意味でも悪い意味でも、どうせ変わらないと受け止めることができ始めたとき、こういう人から見たら恩知らずで自己中で付き合い甲斐が一切ない(……もっと言えばきりがないので省略)のがわたしの本性なわけだから、

本性は本性なのであって、

あの人たち(家族)の本性もあのままだろうというあきらめというかっこいいものではなく、そういう受け止めをすることができるようになった。

 

どんなふうに見えようとも、人には本性があって、本性は変えられない。本性が醜いとかきれいとかそういうことを言っているのではない。本性だもの。


ただ、血のつながった人であれ、そうでないにしろ、結果的にはその本性を受け入れられるか受け入れられないか、折り合えるか折り合えないか、という話なのではないかなと思うようになった。

 

そして人は縁のある人とは関係があり、縁のない人とは関係がないというだけのことなんだなあって。はぁ、この先わたしはどんな人になっていくのでしょうね。