東京に向かってます
あなたはこのままだと社会に迷惑かけちゃうから、「福祉」っていう守られた世界があるから、そこで「障害者」として生きることで死ぬまで暮らすべし(前半は原文まま、後半はそういうニュアンス)って主治医に言われたころに書かれた診断書には、わたしについて以下のように書かれたくだりがあった。
自分の思想や目的を通すためなら、周囲の迷惑をかえりみず行動する。当然、いつも周囲の批判や反感を買うことになるが、気にくわないと他責や、自傷行為、衝動行為を容易におこす状態にある。
こんな調子で書かれた診断書をわたしはたまに読み返してみる。
この診断書というのは、障害者であることを認定するために必要な書類だった。
つい最近までわたしは、だからお前は人として破綻している、くずだ、人間以前に人格が破綻している、というようなことを常々言ってきたり、
そういう診断書を作成したりする精神科の主治医にたいして、
自分の信念や正義を押し付ける、そっちのほうもよっぽど問題がある人なのではないかと信用もしてなかったし、
右から左に聞き流してた。
障害者の申請?あーはいはい、勝手にすれば?みたいに。
だからそういう態度が余計むかつかれてるんだとわかってたけど。
わからない人に話しても平行線だし、意味ないと思っている。
一方で、これって自閉症とまったく関係なくない?人格攻撃じゃないの?という疑問は解消できないままで、障害者認定がおりてからも、あの診断書を見返すたびに、きつねにつままれたようなもやもやをかかえながら生活してきた。
納得して障害者になったわけではなくて、いまでもよくわからない、そんなかんじ。
わたしはいったい、なにものなのかと。
だけど、最近はちょっととらえ方が変わった。
わからない。
わからないままでいい、ということもそうだし。
あと、「周囲の迷惑をかえりみず」って悪くばかり言うけれど、周囲や世の中におもんぱかっていたら、明るみに出なかったこと、とてもじゃないけどやり遂げられなかっただろう仕事が、わたしにはあった。
その選択がベターじゃなくても、そんなのとっくにわかってるけど、だけども、そんな気概がなければ成し遂げられないことだってあるでしょうよと。
あのときは、あのときも、だけど、いつもわたしは、そのときにできる精一杯の選択をした。
たとえそれが、よそからみたら、まちがった道だったかもしれなくても。進んでいくときはあるでしょう。
わたしはそのときその瞬間を生きられたことを、誇りに思ってる。100%わたしは人格破綻者だと、そんなふうに恥じる必要はないんじゃないかなと、いまは思えるようになった。
だけどもちろん、それだけじゃいけないし、足りてないとこがあったなあ、とプラスアルファで思うわけです。
もっと周囲への配慮や相手の気持ちを知ること、耳の痛い忠告を聞き入れることも必要なことだよなと、いまになっては思うよ。
だから、診断書の内容は、人格攻撃かどうかはわからないけど、あながちはずれてはなくて、少なくともわたし自身において常に軌道修正や見直しは必要だなあと。わたしに限ったことではなく。
いま、雪国から東京に向かってます。お世話なった人に会うためです。もしかしたら、あのときのいたらなかった自分に再会することがあるかもしれません。ないかもですが。いずれにしても、わたしはなにを思うのでしょうか。