ちぐはぐ
東京にいると、秋田でぐるぐる考えてたことがどうでもよくなるなあ。
産むはやすしで案ずるほうがむずかしい、みたいな。
いや、だけど、東京にいたらいたで、砂漠を永遠にさまよっているかんじで、のみこまれるような恐怖をかんじて、わたしはすかさずどこかにまた飛び立って逃げたくなってしまう。
そんなどっちつかずな人が、自分のなかにあるたくさんの芝生を、あっちもいいしこっちもいい、だけど、ごにょごにょとやっている。
きょうは女子のお友達ときゅうきょ夜遅くにエスニックや午後は下北のカフェでお茶とかすることになったけど、彼女たちは仕事もつねにいそがしくて(たぶん)きびきびしながら、片手間でおされなお店をすぐにいくつも検索して、すばらしいコミュニケーションスキルでもってわたしが不自由しないように誘導してくれて、
グループラインのスレッドは瞬時にたって、流れ星の速度よりも速いんじゃないかという高速展開でコミュニケーションや段取りが進められていく。
って他人事だけどわたしもそこに入っていて、だれもわたしをグループのひとりとして拒んでないのだけど、
わたしはその展開の速さと情報量の速さにしっちゃかめっちゃかで、わたし、浮いてないかな?って不安になって自分から身を引いて去りたくなってしまう。わたしだったら、その展開や情報量なら一年くらいかけてやるのがちょうどよさそうじゃないかと思ったり。いや、むしろ、地方都市の人々のペースがのろいから、自分もそういう瞬殺スキルがあるくせに、やっぱり村社会でこっぴどくやな思いしたからわざとトロくして迎合してるやなやつなのかもな。それあるな。事実それはそれで、眠くてかったるいんだよなあ。そうしてやっと村男子を立てられるけど、立てたところで愛も恋もなくて虚しくて、そこにあるのはつらみと忍耐だけで死にたくなったのだった。
だけどいま、その「ちょうどいい」ってなんだっけとか、あまりにひとりのなかの世界にこもってしまっていて、それが普通だったけど、いつからそれを普通にしちゃったんだろう、とか、なぜそれが普通なんだっけ、みたいに頭がちゃんぽんしてる。
新宿にきた。神田から新宿に行くのは何線か検索してしまった。中央線だよ。そんなこともわすれてしまったのかと隔世の感をおぼえたが、オレンジ色の列車を見てすぐに愛着となつかしさをおもいだして、吸い付くようにシートにからだをのせた。
やっぱり東京は好きだ。
新宿は泣きそう。
中央線は胸がきゅんとなる。
車内で見た転職サイトのマイナビの「新しい生き方に賛成!」みたいなコピーとトランクを持った宮崎あおいさんの姿に心が明るくなる。
たとえ広告という幻でも、そういう前向きな方向に転職なりギアチェンジがとられるようになったってことだろうから。
地方都市はそういう点で、古い価値観が残ってて、たぶんそれはずっとはびこり続けるものだから、とても生きにくい。車内広告の力は大きいなあと思う。
日々電車や街でそういうのにさらされてなにかを考えるのと、古い価値観がはびこるなかで、そういうのにふれるのは、入っていきかたがちがうんだよね。そんなかんじ。
わたしはいったいどこの人なんだろう。たぶんどこかわからないその間病(あいだびょう)になっちゃってるきがする。
東京にそれなりに節度をもって存在している限りは、あいだびょうは時間の無駄で、というか、あいだびょうになるような隙間がなくて、与えてくれなくて、そうこうしてるあいだにおっさんがぶつかったと構内で別のおっさんに怒鳴りあいの喧嘩したり、いつのまにか終わって、みんなどこに向かってるのかわからないけれど、たぶん「する」ことで精一杯で、それに合わせていろんな便利なものでこの街はなりたってるのだと思う。いまちぐはぐなわたしのこころとからだ。