緊張ちゃんとゆるみちゃん

ツンデレ隠居系女子の日記/東京→北東北に移住4年目

衝動性と思慮深さとのあいだ

生理2日目でか出血もひどくて、からだが重だるいからか、11時くらいまで布団に入ってしまった。
たくさんお布団に入っていた。

目覚めたときにふってきたこと。昨日見終わった「婚前特急」、自分の表面と裏面みたいだなと思った。
あまりに痛すぎていらいらしてしまったけど、それは自分に心当たりありすぎて恥ずかしすぎるからで、あのときはわたしも、一人では寝られなくて、というかあまり夜にちゃんと寝たとかいう記憶はなくて、たぶん朝も夜も関係なくその人のことばかり考えていて、というかどうやったら一人のさみしさから逃げられるかという幼稚なただの自己防衛でしかなかったのだけど、だけど本当に愛したり愛されたり恋とか知ってるようでまったくしらなかったし、それ以前に人としてまともに関係を築けたことも、そういうものが存在するなんてさっぱり知らなかったから、感情のおもむくままに、ただ衝動的に、テレビのチャンネルをザッピングするように人をとっかえひっかえしたり、されたりしてた。したりされたりしながら、考えていることは、もう次のことや別のことを、したりされたりすること。そうしなきゃ心が埋まらなくて、どうしてか、なにをしていても強い不安や疑念が出てきて、次のもっと強力な不安や疑念や苦しみでもって自分を痛めつけなければ安心できなかった。
さみしさや孤独は、ずっと穴の空いたばけつ状態でだだもれで、それを自分でどうこうするなんてことを考えたことはなかったから、どこまでわたしはがんばって水を補給したらいいのか分からなかった。だだもれなのに。だけど、だだもれの自覚もなく、だけど、実際だだもれだから、急いで、いっこくも早く、水をそそがなければ、という強迫観念や焦燥感があって、ザッピングしまくる。
まったく事情の知らない人からは派手にもリア充にも仕事も恋も充実してとか社交的だとか、表面的には見えたと思う。そんな時期を表面(といってもそもそも裏と表は表裏一体だし、どちらでもないのだが)というならば、裏面のいまのわたしは、「隠居」という積極的に選択しているという体をとって、それはニートやフリーターとはちがうんですよ、なんて高いプライドでもってそのように言ってはいるものの、簡単に言ってしまえば、しずかーに、好きな時間に起きて、寝て、たまにずっと眠っている眠り姫になったり、ひきこもりしたければしたいだけして、スマホ一つあれば、本も映画も漫画も雑誌もドラマも音楽も、シャワーのごとくオンデマンドでシャワー浴び放題で。
あんなにザッピングのごとく仕事もプライベートでも浴びるように会っていたリアルな人々は、一見社交的にも見えたわたしはいまはどこにもいない。いまいるのは、ひとりであることと、あとは頭の中だけの妄想が広がっている。
傷つくことも知らなくて、というか傷つく痛みも知らないから、誰彼かまわず傷つけたり傷つけられたり、苦しんだり苦しめられたりしてぼこぼこ車をぶつけても、そこに痛みがないから廃車になっても走り続けていたころのわたしは、裏面となったいま、その車やぶつけた壁の惨状や、周りに倒れている人が自分がぶつけた人だということを知っていったり、それでも自分の車だからちゃんとメンテナンスしなきゃと建設的な方法で修理という「対処」をおこない、自分の体が痛いときに痛いと感じるようになったから、人も自分と同じように痛いときは痛いと思うものだと分かってきて、人を思いやれるようにもなってしまって、思いやりすぎてしまったせいか、むしろ、こんな迷惑をかけてしまった自分だから、人様と、世間様とはわたしはしばらくかかわらずに、わたしはひっそりひとりで隠居していたほうが、全人類の平和のためだとまで思ってしまうくらいに対極にふりきれてしまった。
表面の時期は、朝までがちゃがちゃしたトランスやアラビア音楽とかロックやパンクとかの爆音がかかるところで、あだ名しかしらない人たちとひぇいひぇいしていて毎晩が刹那的な夜という感じだった。だけどいまは、しんしんと降る雪のなかにひとり。雪から顔を出す福寿草やふきのとうの姿に春の訪れを喜び、夏はカエルの大合唱、秋はスズムシやコオロギの鳴き声を聞きながら秋の夜長を楽しんだり、もう、人工的な爆音や光や蛍光灯はちょっとでも耐えきれないし、具合が悪くてぐったりしてしまう。それを、やっぱりわたしはこれぞ自閉症スペクトラム特有の、やっぱり感覚過敏があるからだと言ってみるけれども、あらゆる感覚に鈍すぎて体を痛めつけていた時期も両方あるから、「自閉症」に簡単に収束させてしまうのもうーんと思うし、だけど両方に振り切れてやってみないと、とにかく中間や中庸、バランスはつかめないから、とにかくわたしは普通を知りたい思いがいつでもあるのではないかなと思ったりする。
常になにかをザッピングしていないと、死んでしまうと思っていた。だけどいまでは、里に下りるのは週1回だと多いくらいかな、とか思って暮らしている。
来週は人間ドッグを受けに里に下りる。
どうしてこんなに頭の中だけでぐるぐる考えて、頭の中で誰かと常にお話しているだけの人になっちゃって、あらゆるものに臆病になってしまって、石橋すら叩きにいかなくなってしまうくらい疑り深く、直感や衝動やパッションで動けていたのが、とても思慮深くなってしまったのだろう……それは、過去の傷か、トラウマか、自閉症のせいなのか、生育環境のせいなのだろうか、親ときちんと愛着を結べなかったせいなのか、などいろいろ原因を分析したり考えて考えて考えまくったりしてみた。
だけどいまは、わたしは全然変わってない、本質は変わってない、そう思うと安心する。何かをきっかけに、自分が急に変わっちゃったなんてことはない。表面の時期は、ただ衝動が強かっただけ。衝動に身を任せることでしか動いてなくて、そこに思慮はまったくなくて、いまは思慮深くなってみてるだけだって。そんなに人って変わらない。