恋愛苦手女子
最後の夜は、新宿シネマカリテで、いちばんみたかった映画「勝手にふるえてろ」がやってたから、眠かったけど見た。
妄想恋愛しかできないこじらせ女子が現実に目覚めて立ち向かうまでのプロセスを描いた作品だけど、主人公の思考回路が自分とそっくりすぎて気持ち悪くておもしろかった。
わたしにとって、音楽にしても、本にしても、内容がおもしろいかとかよりも、いまの自分の気持ちのトーンに寄りそえているかがなによりも大事だから。
とても寄りそえてて、最後まで心地よかった。
ああ、わたしもきもい、十分きもいよと、このかんじ、いい。
フランス映画「アメリ」が太宰治的な女子だったらこんなかんじになるのかな、というかんじも受けた。
ほぼ満席だったけど、帰り道、うしろを歩いてた若いカップルの男子が女子に「(主人公の女子が)甘ったれすぎててありえない!」と憤慨しているのを聞いてしまった。それにたいして女子はなにもコメントせずにだまってた。
ネットのレビューを見ても、男性のレビュアーは主人公女子のパーソナリティをこき下ろしていて、こんな女はありえない、とか、ワースト1映画だとか金返せとか、
女性には等身大で好感がもたれている作品なのにたいし、男性にはひどく不評なことが見てとれた。
これらのことから勘案すると、太宰治的キャラは男なら感心されるアドバンテージすらあるけれど、女はきもいし痛いだけで、男には評判が悪く、まったくモテなくて、百害あって一利なしだということ。そりゃ、女子は女子力をみんなそろいもそろって磨いて武装に走るわけだわと思う。
だけど、太宰治的キャラの男がいれば、女だって一定数いてもおかしくないわけで。
男はその愚かさは勲章にすらなるきらいがあるけれど、女子がそれを言ったところで、大損はこくけど恋愛市場においては需要がないという現実を、これまでわたしはいやなほど突きつけられてきた。
同時に、そこに生きづらさを感じる女子が意外とたくさんいて、器用にやってるように見えて、実は肩身がせまい思いをしているのもわたしは知っている。
おれの愚かさを知ってくれという男は多い。
なかでもわたしは、自分の愚かさを、まるで太宰か三島にでもなったかのように武勇伝のように語るスノッブ男が大嫌いだ。
彼らは自分たちは太宰か三島でありながら、女には太宰か三島になることをいっさい許さない、超ミラクルな男尊女卑感を持っている。
そして、太宰や三島のために泣かされる女の役になるように染めあげようとすらしてくる(超経験談)。
にもかかわらず、陰では涙を流しながら、それが女の幸せと信じて疑わない健気を装う女は、いっこうに減る気配がない。が、わたしからしてみたら共犯者と変わらないわけで大嫌いだ。ほろびてほしい。
女だって、きもいこと考えてるし、ばかだし、ろくでもないし、痛いのは、そんなに男と変わらない。
だから、先のカップルの、仮にわたしが彼女だったら、わたしはその発言で彼とは一切口をきかなくなり、改札で別れたら最後、もう二度と会うことはないだろう。
きょとんとして理由をたずねてくる彼氏に、一生理由を語ることもないだろう。
男の甘ったれはすべて愚かで勲章ですらあると許されて、甘えを彼女に求めつつ、
女子がほんとうに愚かでよしよししてほしいところは永遠に理解もよしよししてくれなくて、
男をただ満足させるために、女子のほんとうの愚かさを隠しながら、別件を作ってよしよしされるように嘘泣きして甘えるだけの女でしかいられない関係なんて、
わたしはいらない。