緊張ちゃんとゆるみちゃん

ツンデレ隠居系女子の日記/東京→北東北に移住4年目

心に棲みついていた君へ

きょうはTBSの火曜ドラマ「きみが心に棲みついた」第6話をスマホのオンデマンドで見た。

「きみ棲み」のおかげで、次のまた火曜日(TBSなし県なので正確にはその翌日)までの1週間、まあ生きてもいいかな、という気持ちになる。

楽しみにしている連続ドラマが一つでもあるということ。それは生きる希望。

少なくともたぶん「きみ棲み」がある間は、わたしはきっと生きている。

 

かつて山間部で一人駐在員生活を送っていたとき、二週間に数回程度、当直勤務や会議のために、ローカル線で1時間半くらい揺られて支社に行かなきゃいけなかったんだけど、

これがとても憂鬱で憂鬱で……

あまりにも逃げたい気持ちが強かったのだろう。

パソコンや資料を入れた大きなリュックを駅のトイレに置き忘れたまま、

手ぶらで1時間に1本あるかないかの電車に慌てて乗り込んでしまっていることにも気がはらえなくなるくらい、

当時のわたしのメンタルは崩壊しかかっていた。

 

それでも握りしめていたスマホで、

わたしは当時やってたTBSドラマ「逃げ恥」から「カルテット」が放映されるまでの期間、

電車に揺られながら、それをオンデマンドで見ることで、

くすっと笑ったり、胸がキュンキュンしてしまったり、ぼろ泣きしたり……

そうこうしている間に電車はわたしを終点へと運んでくれたおかげで、

最後まで会社に向かうことができました(ちなみに荷物を忘れた件はJRから電話があって初めて気づき、一時間に1本あるかないかの各停で往復3時間かけて取りに戻り、会社に遅刻して迷惑をかけました)

 

話はそれてしまったけど、きみ棲みの話。

どんな人でも多かれ少なかれ過去の傷をかかえていて、その傷があるときふとむき出しになってどうしようもなくなってしまうこともあるけれど、

登場人物たちの一見、理解に苦しむような言動も、悪いクセも、痛さも、臆病さも、

傷を抱えているがゆえの個々の事情があって、

いまにいたっていて、

それがいいとか悪いとかじゃない肯定的な描き方がされているという安心感もあってか、

毎週、登場人物に出会える時間が、とっても楽しみなんです。

 

今回の第6話も、胸がキュンキュンしたり、ほろっと泣いてしまったりもして、すべての場面が好きなんだけど、

中でも最後、ニシナさん(向井理)がすがりついて離れない女性をふりほどき、

「ぼく、愛がないセックスのほうが興奮しちゃうみたいです」と一言言ってタクシーに乗り込む場面に、なぜかぞくぞくしてしまった。

 

それは、台詞そのもの善し悪しではなくて、その人がそう思うにいたった背景が丁寧に描かれていたからこその、

ほんとうに稲妻が頭に直撃するくらいのインパクトのある言葉で、

プロセスあっての登場人物の魅力とぞくぞく感が、おそらくあの一言に凝縮されていたように思える。

 

きみ棲みを見ていると、自分の心にもかつて棲み着いてしまった人のことを重ねずにはいられなくなる。

12年間という長い時間だったけど、

わたしも主人公のキョウコの首にいつもぐるぐる巻きにされているストールのように、常にしばられてた。

 

その人は、わたしと関わる男性関わる男性、いま振り返れば、仲を引き裂いて、トラブルをわざと起こして、人間関係に亀裂、対立構図を作ることで、

そこに自分がまるで「救世主」のごとく助けに入るシチュエーションが、病的なくらいとても大好きな人だったんだなあと思う。

 

人が争う場面が大好き。燃える。いつしか抑制がきかなくなって、自分で放火をして消火活動をするやばい放火犯のように、わたしの周りに火のないところにまで煙りを作って、放火をして、消火活動をする自分に彼は酔いしれてた。

 

だけどわたしは、わたしが未熟だから、わたしはいたるところで対人関係のトラブルを作ってしまうかと思っていた。

だからわたしは彼がいなければ何もできないやつだ思ってた。

でもいま振り返ってみれば、わたしが対立に巻き込まれてしまっていたのに共通するのは、いつも彼が入ってきたことによってだった。

 

火事が起こると、かならず彼がいつも消火活動にまっさきにかけつけて、懸命に消火活動に汗を流しているのだ。

しかし、そういう連続放火事件が同じ地域で相次ぐと、警察もさすがに不審に思うようになってきた。

 

わたしはもともと、争い事を好む人間ではないんだなあ、って最近やっと分かったというか、思い出した。

 

だけどなぜか彼が入ってくると、わたしは相手の土俵にわざわざおりて、誰かを憎んだり嫉妬したり、突き落としたり突き落とされたりと、いつもの自分では考えられないことに巻き込まれてた。

 

そうして彼は、わたしにいつもこう言った。

 

おれがいなければお前はなにもできないのだから。

おれの助けがあるから、お前はそんなクズでもやってこれてるんだ。

世の中の男で、お前を扱いきれる人間は誰もいない。

そんなお前を理解してやってる俺をありがたいと思え。

 

などなど。

 

だけどいつしか、この人は自分で勝手に争い事を作り出しているだけだと、現象を現象としてわたしが見られるようになったとき、

わたしにとってその人は心に棲み着いていた住人でもなくて、

その人も傷をかかえたまま大人になった、

ごくごくふつうのひとりの人間だというふうに見えるようになった。

 

そして、わたしがほんとうに家が火事で燃えて困っているときに、彼がそばに駆けつけてくれたことは一度もなかった。

わたしは一人で粛々と火を消した。焼け焦げた家を見て、一人で泣いた。彼がいなきゃなにもできないやつでもなかった。

それがすべての答えでもある。

 

重いなにかを抱えたまま、彼は大人になってしまったんだなと思った。

 

誰かを助けたり、自己犠牲したりすることによって、

ほんとうは自分を救おうとしている弱さを、受け止めてあげられるようになればいいね。

 

だけど、そんな簡単なことに気づけないくらい、

引き返せないところまで、重たくこじらせてしまった、

そういう生き方をしてきてしまった彼の過去を、いまさら取り戻すことは不可能だ。

 

せめてわたしは彼のために、

彼のマッチポンプのトリガーになってしまうわたしが少なくともまずは離れることが、

その人の幸せをいちばんに願うことだと思ったから。

 

彼はたぶん一生気づけないかもしれないけれど、

というかいくらわたしがなにを話しても、

とても抵抗が強くて、これは一生無理だなあと思った。

 

同時に、そのくらい彼はもう、下ろせないくらいの重い荷物をかかえてしまっているのだと思った。

 

だからせめて、わたしの荷物くらいは減らして、

つらい道のりかもしれないけど、どうせ歩くのならば、少しでもこれからの残りの人生、楽に歩いてほしいとわたしは願うことにした。

 

着込みすぎてしまった鎧の内側にいる、ちっぽけな自分に、君がみずから手を差し伸べられる日がくるといいなと、今日も、いつも、ちっぽけにわたしは願っています。

そんなに一人でもない

ただいま。今日はおうちに帰って、新鮮な三つ葉がむしょうに食べたかったから、スーパーで買ったばかりの三つ葉をのせて、親子丼を作ってお夕食に食べました。

 

先日の人間ドックで、自分のカラダの3分の1が体脂肪という、見かけによらず隠れ肥満児であることを指摘されてから、健康にはさらに気をつけるようになりました(ていうかこれまでも自炊も毎日けっこうがんばってて、粗食しか食べてないのに……)。

 

これを機に、バランスのいい食事のレパートリーをもっと増やしていって、

いつかは家族の健康を考えたオリジナルなタニタ食堂的なことができるようになればいいなあ……。

 

運動も公園や市の体育館とかでちょいちょいしてたけど、いつのまにかだらだらとメリハリがない弛緩してのびきったかんじになっていたのではないかと反省し、

ちょうどいい機会かなと思い、先日からちゃんとお金を払ってジムに通うようになりました。

 

あれから、海の底にずっといるような低迷がしばらく続いていたけれど、

底を打ち続けた弾みでまた、

わたしはなんだかんだでバランスの人なので、

いきなり海面にどぴゃーっと飛び出したくなって、

トビウオのようにじゃんじゃんバタフライしたりして、

 

だけどそれじゃあ疲れてきて、

でもまたしばらく一度赤い靴を履いて踊り出したら、止まりたくても止まれない少女のように泣きながら回り続けた結果、

強迫神経症的なかんじや、焦燥感にイライラしてきて、

んもおおおおおおと発狂マックスして、こんどは天井を打ってからというもの、

 

今日は目覚めたら、珍しくぐっすり眠れて寝起きからとても落ちついていて、

赤い靴が脱げなくて踊り続けているときにはできなかった

あれほど難しいペースダウンという状態が容易にできて、目に映る世界の解像度は標準になっている←イマココ。

 

相変わらず揺れ幅は激しいけれど、

だけど激しいなりに、どうせそうなったらもとに戻ってくるわけだし、

自然の摂理と一緒で、どうもならんし、

まあこういうもんだなあというふうに肯定できるまでにはなった。

こんなんじゃだめだー、って揺れ幅にいちいち動揺して自己嫌悪して全否定して首吊ってたときに比べたら超進歩。

 

思い込みに過ぎないかもしれないけれど、

神ぶるなと思われるかもしれないけれど、

わたしは人のだいたいの感情、たとえばこういう状況になれば人はこんな気持ちになるだろうというようなパターンは、

発達が遅れた分、取り戻したいという必死さもあったし、

分からないなりに人よりもそこは相当努力をした結果、

だいたい一通りは想像がつくようになった。

 

自分の感情も、

その体験がいくら特異で誰にも理解できるわけがないだろうと思っていることについても、

きっと同じような、相似形の感情を、

すでに誰かがとっくに感じたり悩んだりしていて、

克服しようとしたり、

またはそれを向き合う文学なり表現として昇華しようとしてきたりしている先人もすでにいて……

 

ようするに、何が言いたいかというと、

その人固有の特異な感情なんて、そうそう存在しなくて、

たいして自意識過剰でもなくて、

そんなにわたしたちは個人単位で存在しているのでもなくて、

一人でもなくて、

常にそういう意味では共有できるものを持っていて……

 

それははっきりと形にしたり、目には見えるものではないけれど、

 

そんなふうに考えると、

やさしいものに常に包まれているような一体感や安心感を持てるようになるというか、

わたし自身、だんだんそうなっていっているように思う。

 

分かってしまえば、法則がわかってしまえば、

なーんだ、そういうことか、とも思うのだけど、

 

いつからか、そういうやさしいかんじを心のどこかの片隅で持てるようになってきて、

最近はまた、飛び出しては引っ込むを繰り返しながらも、

自分の殻の外に出てみる、ある新しい試みをまた始めました。

 

うまくいくか分からないし、

だけど、自分の心と体が、そこに向かって踏み出してみようと動いたことを、わたしは一番に信じてあげようと思う。

変な出来事3つ

昨日起こった変な出来事3つ

 

①お部屋で大事に育てていた福寿草が、開花直前のつぼみをぽろっと落とし、お亡くなりになる。歯が突然ぽろっと抜け落ちるかのように。その瞬間を見た。

 

黄色い花が顔をのぞかせるときを心待ちにしながら、一緒に厳しい冬を乗り越え、春を待とう……そんな希望をかんじて出会った鉢植えだったけど、春を待つことなく力尽きてしまった。

だけど、まだ2つ、土の中に埋まっている子がいる。めげずにもう少し待ってみようと思う。

 

追記:土をほじったら、2つの子もすでに土の中で枯れていたことがわかった。ぽろぽろと手のなかで崩れていきました。さようなら……。

 

秋田駅の目抜き通りを歩いていたら、後ろからカラスに襲撃される……というか、カラスが間違ってわたしの頭に着地した。そして、わたしの頭を踏み台に、また空へと飛んでいった。

 

一瞬、頭上から雪の塊でも落ちてきたのではと思ったのですが、まさかカラスだったとは……。

 

たしかに、わたしは久しぶりの街へのお出かけだったから、普通の人間らしくないところが多々あったんじゃないかと思った。カラスに止まられるくらいだから、きっと木と間違えられるような、人間とはちがったオーラを発していたのではないか。

 

見えるものには見えていて、そのにおいを嗅ぎつけてよってくるのだと思う。気をつけて歩こうと、気を引き締めた……

 

③……矢先に入ったゆうちょ銀行の個室ATMでお金をおろし、記帳をしているところ、外から若い男が入ってきた。

外は吹雪いて寒いから中に入ってきて待とうとしてるのかなあ、この人きっと急いでるのかなあ、早く操作しなきゃなあ、

だけどそうやって後ろに立たれるのプレッシャーだしうざいんだよなあ、などなどと思いながら、

操作を終えて、いそいそと「お待たせしてすみません」って扉を開けようとしたら、なんと、扉が開かない。

 

わたし、扉をちゃがちゃする。

 

男「開かないねえ」「鍵がかかってるねえ」

 

と真顔で言われ、いつのまにかわたしは男に鍵をかけられて、ATMに閉じ込められているという状況であることを理解する。

 

秋田駅の目抜き通りといえども、ビジネスマンでにぎわう平日とちがって、土日は閑散として寂れている。けっこういい死角になっていた。

 

だけど窃盗目的というかんじではなくて、そのおかしなしゃべり方を聞いて、あっちじゃなくてそっち系だなと思った。

 

わたしも真顔で「そうだねえ、鍵がかかっているよねえ、開かないねえ、困ったねえ」と返すと、男は自分で閉めた鍵を、自らあけて、得意げな表情になった。わたしは、「(開けてくれて)ありがとね」と言って出てきた。

 

それにしても、②③の出来事があって、ねーねーさっきこんなことがあったよーみたいにしゃべる家族のような人もわたしにはいないし、仮にいたとして、この不可解さの説明はうまくつかないような気がした。

 

なんだかこのままもやもやしたものを抱えて約束の場所に行くのは、不吉だ……気をつけなさいというなにかの啓示なのか……そんなに、カラスやそういう人に付け狙われやすいよからぬ波動を発しているのか……とか思ってしまって、その足で駅前の交番まで行って、あらいざらいあったおかしなことを話そうと決めた。

 

こういうことがありましたので、みなさまで共有くださいませ。わたしは幸い、なにも被害はありませんでしたけど、ほかの利用者がそのような状況になってなにかあるとも限らないし……と、発生時刻やら男の人着やら、一通り話してちゃんと対応していただきました。

 

お巡りさんからは、「正直いってこのへんは、頭のおかしい人がとっても多いです。ここはバスも止まるし」と説明を受けました。

 

わたしは警察にかかわる仕事をしていたこともあって、精神障害者にたいしては、すべて「どうせ頭のおかしい人のしたことだから」というふうな扱いによっぽどな凶悪犯罪ではない限り処理されて終わるというのは見てきたし、

頭のおかしい人がおこしたものまでまともに取り合っていたら、実際たくさんありすぎてきりがないのもあるかと思います。

 

それはそうとして、土日には、出かけるとしたら、閑散とした駅前の目抜き通りで、ATMの利用客を鍵をかけて閉じ込めて、驚かすくらいの遊びしか居場所というか、遊びがないなんて、気の毒なものだなあと思いました。行き場のない移民のわたしも似たようなもんだわ。

 

そして、平日は近くのビジネスマンでにぎわっている場所が、土日にはこんなに閑散としてしまう……というのは、中心市街地がイオンモールとかの郊外にある地方都市によくある光景なのだけど、これはねえ、ほんとうにさみしいものがありますね。

 

まさに車社会の弊害ですね。

 

車を持てるものは郊外のイオンモールに行くけれど、生活保護だったり貧しくて車を持てないものは、バス(バスは障害者は半額)の終点である秋田駅へと流れ着くしかないという。

 

以前、バスを利用する機会があったのだけど、止まる先々、いろんな精神病院の近くの停留所から、外出許可を得た入院患者らしき人が乗ってくるか、高齢者がほとんどでした。1時間に1本あるかないかの不便なバスでありながらも、それしか足がないというのは、結局はそういうことになるのかなあと。

 

たしかに周りを見回せば、そういう人たちが土日は駅周辺にほんとうに多いのが目につく。だけどほんとになにもないので、たしかにATM閉じ込めごっこをして得意げになるのが、

もっとも楽しい遊びになるのも分からなくもない。

 

とはいえ、警察には、そういった今回のようなおかしな発生を、

精神障害者事案だからどうせ検挙もできないし……一応、受理して共有する、というだけに終わらせてしまうのではなくて、

そこは仕事の範疇ではなくなってしまうのだけど、そうやって彼らが野放しにされてしまわずに、病院と連携をするようななにかがあればいいとは思います。むかしは病院も患者の外出にも、ワーカーさんが同行する余裕とかもあったそうですが、いまは書類が忙しくて、とてもそんな牧歌的な時代ではなくなった……なんて声を聞きます。全国的になんでしょうけど。

お葬式

今日は朝から吹雪いている。

吹雪いているなー。そうやって窓の外を見つめながら煮出したチャイを飲んだ。

吹雪いているなー。ただそれだけ。


朝起きたら頭が痛くて、鼻水も少し出る。しばらくひきこもりだった人間が、昨日ジムに行くという外出をすると、こういうことになるようだ。

 

昨夜も、一昔前に見た日本映画を見て「卒業式」のような儀式をしていた。

初めから卒業式をするつもりはなくて、ただただ毎日、アマゾン動画で見たい映画を見て、だらっだらっと見ていたにすぎないのだけど、

たぶんこの気持ちも一過性のもので、風邪を引いてそのうち治っていくように、また過ぎ去ってしまうのだろうけど、

自分はいつも、音楽も映画も漫画も本も、そのときの気持ちに寄り添うものをほしがる傾向にあるから、

たぶんいまは、あのときの自分の気持ちを食べたいだけ食べて、

どうせおなかをこわして下痢してしまうのだから、

いま食べたいものを食べたいだけ食べようという単純な発想に基づいているのだけど、

いつもなんでもむつかしく考えて自分に厳しくする方向に向かってしまうから、

こういうふうに自分がなれるときは、大事にしようって思った。

 

昨夜は、タナダユキさん脚本監督の「百万円と苦虫女」を直感的に見た。

初めて見たのは、20代半ばのときに、仙台に住んでたときの近所のシアターだったんじゃないかなあ。


いろいろ事情があって実家を出ることを決めた女性が、100万円たまるごとに、新しい町に引っ越すというお話なんだけど、

初めてそれを見た当時のわたしは、その女性が行く先々を転々としなければいけない切実な事情とか、

家族と引き裂かれることによって起こる心の機微とか、それがその人の対人関係にどんなふうに影を落として、そんな極端でこっけいな「100万円たまったらこの町を出る」という行動に結びついているのかということとかはまったく想像するにはいたらなくて、


むしろ、海の家のアルバイトから始まって、山間部の農家に居候してもも収穫のアルバイトからの、とある地方都市でのホームセンターのガーデニングコーナーのアルバイトとか、めっちゃ楽しそうだなあ、すてきな人生だなあというふうに見ていた。


だけど、そういう旅するような人生には、「所在なさ」をかみしめることがあったり、

だからこそ通りすがりのだれかに、あるとき無性に自分のことをすべて打ち明けたくなってしまう瞬間があって、

うっかり恋に落ちてしまった自分を、乙女かよ、って自分であざ笑ったり、

後悔したり、全力で走り去ったりしながら、

でも、その人が迎えに来てくれることをかすかに期待してみたり……

でも、最後は、「ま、来るわけないか」って自分に突っ込みながら、ドーナツをかじりながら、また次の町へと向かう。今度こそはなにかにちゃんと向き合える自分になれることを信じて……

 

人はやっぱり、どんなにオリジナリティがあることでも、どこかで取り入れたイメージだったり、真似しかできないのかなあと、10年ぶりくらいにこの作品を見て思わされた。
これまでのわたしの根拠のない自信や展望も「100万円たまればなんとかなって次にいける」という、この作品の主人公・鈴子の視点によって支えられてきた点が大きいような気がした。
ああ、こんなにいまの自分に大きな影響を及ぼしていた作品なんだなあ、としみじみしてしまった。


海の家のバイトまでは体験してないけど(主人公の鈴子もあまり向いてなかったと言っていたから、そのイメージに潜在的に従っていたのかも)、

それからわたしも、田舎の山奥の桃ばっかりが広がっている桃園で桃ををもいだし、軽トラの荷台にも揺られたし、

栗園も、ぶどう園も、サクランボ園も長靴はいて入ったし、

田植えもしたし、お米も収穫したし、

ご当地ゆるキャラの中の人にもなったし、

農家や集落の人のおうちに住まわせてもらって、ごはんを食べさせてもらったり、だけど文化のちがいによる不安で恐い思いもたくさんした。

 

最後の最後で、村八分にあって村人たちから追い出されるという体験までそっくりなことをして、数えればきりがないけれど、
いいことも悪いことも、過ぎてしまえばわたしにとってどうでもいい、どっちでもいいと思えて消化してしまえていまもいたるのは、
鈴子の見たような景色をわたしも見てみたいし、鈴子の思いをわたしもしてみたいという気持ちが、

あの映画を見たときから、ずっと憧れとしてわたしのベースにあったんだなあということだった。


そして、村八分にあって向かった先はとある地方都市で、ホームセンターのガーデニングコーナーという……

当時は、次がガーデニングコーナーだったということは完全に忘れてしまっていたけど、まさにいま自分はそっくりそのままの順番で、そっくりなことをやっている。

村八分にされると、ほどほどの地方都市に行って、人は植物を育てたくなるのかもしれない。


なんというわたしのオリジナリティのなさ。

人は自分らしさや、自分の人生を大切にしろなんていうけれど、なにかのイメージがなければ結局なにもできないし、だれかの模倣をきっと知らない間にもしているんだと思い知らされる。


鈴子が恋をした森山未來くんから「自分探しですか?」って聞かれる場面があるけど、

それに対して鈴子が「むしろ自分はずっとここにいますから……」「探すよりも逃げてるだけですから……」っていう台詞が厳しくてとても好きだ。


わたしも、行く先々でよく「自分探し?」と聞かれたり、陰で自分探し系と言われたりしてきたけど、

自分はいやなくらいにここにいて、つきまとっていて、自分からは逃れることはできないとわかっていた。

だから、そういう面倒くさいことそのものから逃げたいという、ねじれた気持ちをいつも抱えていた。

 

毎日が旅するような生活や、そうであるがゆえに感じる「所在なさ」という言葉がどういうものなのかも知らなかった20代半ばだったころのわたし……

あれから10年、そういう世界の人の景色を見てみたい、感じてみたいという漠然とした憧れを、わたしはしっかりかなえていたのだった。


夢がかなっていたのに、その瞬間っていうのは、人は見逃してしまうものなのかもしれない。

それを感じられる瞬間は、たくさん、たくさん、たくさんあったのに、

あまりにも所在なさすぎて、それどころではなくて、必死すぎて感じられなかったけど、

いま立ち止まって、振り返ってみたら、あーなあんだ、ちゃんと夢がかなってたんじゃん、って思って笑ってしまう。すごく、すごく、笑ってしまう。

かなえたい夢に向かって、進んでたんじゃん、って。

その瞬間がつかめた、って気づけないくらい、必死に生きていたんじゃん、って。

 

たぶん、別の夢をかなえたときにも、きっとわたしはその瞬間はもう、うかうかしてられなくて、別の夢に向かって進んでいて、なにかに嘆いていることだろう。

 

これまでわたしは10数年間、なにかを成し遂げた人、第一線にいる人とかに多く会う仕事をしてきた。

人間すべてが未完成ではあるけれど、だけど取り上げる人はなんらかの分野において「完成品」になっていることが前提としてあった。

そして、その人が未熟であろうが、完成したものとして描くことが求められた。


だから、完成品ばかりに飽きちゃった、とか、自分も完成品になりたい、とかそういうことではなくて、

自分も、完成品かそうじゃないかなんて分からないけど、

外から眺めるだけではなくて、「当事者」としてしっかり生きたいと思った。


外から眺めて、この人はすてきだなー、生き方がいいなあ、とその仕事に一生懸命になってそう思えば思うほど、

じゃあ自分もそんな景色を見にいってみたい、そんなふうな景色を見たら、どんな気持ちが湧くのか、自分で体験してみたい、というふうに心と体が自然になっていった。

いまもだけど、まだまだいろんな「役」を演じてみたい。「当事者」として味わいたい。

 

憧れが現実になってしまったとき、それは思い出として色あせてしまう。

思い出の色彩もすてきだけど、いつまでもその色にひたってられない。

だけどいまは、その思い出と、次のシーンにいくまでの、どうやら限定期間みたいだから、

そうやって、あのときのクソみたいな感情も含めて、

丁寧に土に埋めて、お葬式を一つ一つしてあげようと思っている。

心配はいらない

心配はいらない


極限に振り切れれば振り切れるほど、揺り戻しが強くなって、こんどはあっちに振れているだけだから

だけど、こっちにも、あっちにも、わたしはずっととどまれるわけじゃないから

ずっとあっちに行ってしまうことはないことが、自分がいちばん知っているから


ブランコのりは、ずっと大きく振れていることもできなくて
そのうち飽きたり疲れてしまって
振れ幅がせまくなって、やがて止まる


あっちの世界にずっと、コントロールがきかないくらい振り切れ続けちゃう人は、病気だっていっていいと思う。だけど、わたしの場合はいつもちがった。あっちの世界にいながらも、あっちの世界にいる人みたいになりたくて、そうしてるふうを演じたりしたけれど、

振り子の真ん中にいる自分の裁判官が、あっちの世界にいる別の自分を常に眺めていたかんじ。


アンコントローラブルなフリしてて、ほんとうは片目でコントロールしてた。

そして、ほんとうにアンコントローラブルな人たちを、冷静に見つめて、観察してた。

(オウムの麻原彰晃も、子供時代に通っていた盲学校の中で、ほんとうは自分だけ片目が見えていたということで、自分は特別であるという感覚を見出し、そこから教祖になるまでに自己愛を肥大化させていったんだというようなことを先日、精神科医・岡田尊氏さんの新書「マインドコントロール」という本で読んだ)


ただ、唯一ちがったのは、「その人」の前では、わたしは完全にアンコントローラブルになった。「その人」と2人の世界の間では、わたしはなにも見えなくなっていた。

とはいえ、そういった例外が一部であったよという話であって、

それ以外の人に対しては、わたしは自己をコントロールできていたし、

それ以外の人は、「その人」ではない、それ以外の人だということも認識できていたし、


わたしは、立派な、本来的な、衝動性も易怒性も自傷行為も自殺企図やアディクションも、ほんとうは持ち合わせていなくて、
最後にわかったのは、というか認めざるをえなかったのは、わたしは普通だ、ということだった。


そして、いつも、ずっとずっと、自分はただただ普通になりたかった、という気持ちだった。


両極のどちらかに振り切れてしまうお決まりのことも、

ただ、もっともなりたい「普通」を知るための、健全的といったら健全的で、ちょっと行き過ぎだけどさもありなんな行為の範囲内でしかなかった。

 

両極のどちらかでしか生きられない人とか、そっちに行きたくて向かってる人とは、やっぱりちがって、

なるようにしか人はなれなくて、

わたしはいつも振り子のようになりながら、ふつうを探りたい、ただそれだけだった。

 

「いつもバランス、バランスって、つまんねーんだよ!この保身くそバランス男め!」といって何人かの男性に冷や水浴びせて追い返したけど、自分こそ石橋を叩くくらいに慎重な超バランス女だった。


「振り子なんて普通のことじゃん、当たり前じゃないか」って当たり前のようにまともな人からは言われそうだけど、
まともな世界に入り続けていること自体も、その人にとっての選択の積み重ねの結果であって、
いま自分が考えていることが「まとも」とか「普通」とか言えて、

方向感覚や磁場にすいとられずに思えるということは奇跡なことで、

誰だってなにかのきっかけではずれたっておかしくはないわけで。


こうなってみて思うけど、自分だってもし、初めから「枠」や「組織」とかそういったものを知らずに来ちゃったら、いまもそう見えていたかなあとは分からないわけで。


いやでも組織なり主従関係なりにからめとられていたことで、その間はそこから社会を見ることをゆるされて、自分なりの社会や世の中の座標軸を形成させていったわけで、


だから自分のまともも普通も、人のまともも普通もこわいものだとは思う。


そんなこわさがわかったうえで、

ともあれわたしはわたしに帰ってこられる、というか、

どうせわたしに帰ってくるのだからという絶望なのか分からないけれど、
どこへ行ってしまったとしても、わたしがわたしに帰ってくること、

それは自分が自分でいちばん分かっていることだから、もうなにも心配することはないなあと思う。


あそこへ行ってしまったことが病気だとか、そもそも別に誰も思っていなかったというか、いちばんに自分がそう思ってなかったというのに。

 

そのくらいよく分かっていたのに。

だけど自分が普通で、なにものにもなれないのだということを認めなくなかった。普通をつきつけられるほど恐いものはなかった。


ほら、やっぱり普通に戻ってきた、なんてつまんないやつ、やっぱりお前はたいしたことなかったんだな、お前はその程度なのかよ……

そうやって誰かから侮辱されるのが悔しかったし、そこに戻ってきちゃいけない気がして、


だけどわたしはやっぱり普通で凡人で、普通になりたくて、普通を知りたくて、って思ってて。


かといって、やっぱりお前はごくごく普通の人だよ。いつまでもそんなことやってないで、普通であることをいい加減認めろよ、

だけどがっかりだけどな……

っていう一言余分なニュアンスで言われるのも傷ついて、

余計普通を認めるまでに、こじらせてしまったのであった。


だけどいまは、なにをやっても、どうせ普通に戻ってくるということが、

これでもかというトライアンドエラーの実証実験を通して、

もうこんなに実験すれば絶対まちがいないでしょ、ってくらいに自分でも納得できたので、


最近も、ちょっとあっちに行っちゃってるなーって思っても、

「まあ、そのうち戻ってくるでしょう」って自分の中の誰かから誰かに言うことができて、あまりまともに焦ったり悲観したりもしない。

逃げること

2つくらいを同時並行してやってる状態になると落ち着く。一つ一つはとても心細くて不安で、いや、むしろ取り組む価値があるとかそういうレベルにも満たないものだったりするのだけど、

一つだけに取り組むことで生まれる不安から、わたしはもう一つに取り組むことで不安をまぎらわせることができる。


山歩きも、エスケープルートを事前に決めていると、いざへばったり天気や状況が変わったら、こっちにも抜けられるって思えると、「エスケープルート=逃げ道」という消極的な表現ではあるけれど、

むしろ「逃げ」の逆説的効果か、本来の計画に集中できるし、落ち着いて歩くこともできるし、もしそうじゃなくても、「逃げ」本来の意味じゃないけど、逃げ道に行けばいいだけだから、

どちらにしても、別に驚くことも落胆することもなにもなくて、シンプルでいられるのがいい。


話はそれたけど、それは「不安」×「不安」=ゼロになるって発想だからだろうか。


なぜだか不思議だけど、不安なことを(いや、別にたいして不安にもならなくてもいいのは分かっているけど)、このままでいいのかしら、ってやっているときは、どこを歩いているのか、ペースも、方向感覚も分からなくなる。


(一つのことを突き詰める集中力や気力や体力がまさっているときはいいけど、すべてがすべてそうとはいかないときもあるし)


だけど、それと比較する、というか相対的に見られるなにかもう一つを設定してあげることで、「それ」の輪郭が見えてくるとも言えるし、だけど「それ」と向き合うことを放棄した逃げともいえるし、うーん……

ピントはずれな怒り2つ

ピントはずれなこと。

 

すでにからめとられている相手が、わたしをからめとっていることすら気づかずに、善意なくらいたちがわるいくらいほど、付き合うには値しないというのに、

そもそもこちらがお金払っているお客で、本来なら相手はサービスの提供者であって、対等なはずなのに、
ただでさえ優位に立っていると誤解していて、
そもそもが勘違いしているというのに、

優位に立ってなきゃ気が済まなくて、

わたしはその相手の状況をくんで、かなえてあげて、合わせてあげているだけでも、自分はそうとう我慢しているのに、
わたしはそういう人だということの弱みにつけこんできて、
初めは謙虚に近づいてきたのにすぐに距離を近づけてわたしに甘えて、

優位だと自分が証明したいがために、賞賛を常に求めてきて、

それはすべて甘えで、甘えているくせに、よりかかっているくせに

ぜったい甘えていると自分ではみじんたりとも認めようとしない。


ちょっとでも思い通りにいかないと、発作的に嫉妬や不機嫌さをぶつけてきて、
いつもこちらをびくびくさせて、気を遣わせて、
それだけで十分相手はクズなんだけど、
なぜかそんなクズに限って、わたしが受けるダメージは強くて、
わたしはダメージにさらされて、
被害にあってるかんじがして、
もう完全にすべてを振り回されちゃってる感に、
頭ではそれは自分で引き受けることでも全然ないと分かっていながら、

振り回されているところに怒りを感じる。


相手のことを、すぐに調子にのって、あったま悪いなーとか思いながら、
そういうことも含めて自分が振り回されてしまっているかんじがして、
どうしたらいいんだろう。


通わなければいいけれど、純粋に通ってるだけだから、それ以上のものをそもそも相手に求めているわけではないけれど、
相手の毎度満たしてよ満たしてよ欲がすごくて、
自分、その欲に圧倒されて、体が自動的に合わせちゃうモードになってしまう。


そんなにそんなにわたしはいつもなにかに満たされたくて通っているわけじゃないのに、いつも気づけば、その人を満たすことに利用されちゃってるなと思いながら、
一緒に楽しんでるふうなていを装ってしまってたりしまっていて、

そういう犠牲によってその人は成り立っているとも言えるし、そういうことにも思いをはせるべきだとは思うのだけど、


そういうことを理性的になれずに気づけないくらい暴走しちゃって平気でできる人というのは、やっぱりすごく病気だなあと思う。
自分が「進んでる」ということが、結局は優位に立って下を作って比べてるということには変わらないということに気づけないのかなあと思うし。そういうところが愚かだと思う。だけど頭悪いから気づかないんだろうな。

 

しかもそういうサービスを提供するという仕事をしていて、その人なりの理論でいくと「下」というものの上に立っていられる立場だから、

たまたま、その人はそういう姿になっているだけであって、

それが崩れたらどんなに人がもろいかということは、その人はまったく知らないみたいだ。仮の姿へのおごり。


しかもそれを、毎回、お客様だとか言い方とかはどうでもいいけど、相手をお客様だと普通以上に恭しく下手に出てへりくだることで何度も優位性を確認しなければすまないくらいに、

病気なくらいそれはあなたは「自然体に成長できた」わけでも、「鎧を脱ぎ捨てられた」わけでもなく、すてきな女性に成長できたわけでもなく、

結局は誰かがいないと自分を満たせない残念な自分であることは変わりないのであって、

愚かさを認めろばかものよと言ってやりたい。


わたしは別にあなたにほめちぎられなくれも、全然平気。ほんとうは自分が満たされたいからほめちぎっているの分かってる。
わたしの持ってるものについてほめたってわたしからは何も出てこないし、
だからわたしは、そのときだけは出てくるそぶりはしているけど、

自分がこの人になにもしてあげられないのも申し訳ないなあと思って本来はしなくてもいいお返しをしてあげたりしているけど、
そもそもいらないものもらっても全然うれしくない。

もういらないものが多すぎて過剰で過剰でどうしようかと思っている。


逆に、その人は、その人が持っているものを褒めると、とてもうれしくて、とてもとても褒めて欲しいんだなというメッセージをわたしは受けていると認識する。そうやって褒めてもらえるとわたしは満たされるんですといちいちアピールしてくれているのだと思うのだけど、
まあ、そこまで言うなら、言葉はタダだしへるもんじゃないしリップサービスくらいならと思うけれど、
ちょっとそれをやると止まらなくなってしまうくらいにその人はよくばりでほしがりで、
きっとそういうものをからっぽの彼女の体は渇望させながら暮らしているのかなあと思ったり
自分の持っているものが、不安なんだなあ
自分の持っている世界が、不安なんだなあ
自分の持ってる友達や知り合いや家族が、不安なんだなあといちいち比べて感じているのだということが伝わってきて、重苦しい気分になって、いまもとても重苦しくて、わたしは彼女を傷つけてしまったんだなあとか、

一方的にほしがってとりに来た相手に対して、こちらがいやな気分になる関係でもそもそもないっていうのは分かってるわけだけど。

むしろ、欲張った分、勝手に自爆して傷ついてろ、って話なのに、わたしは相手だけを地獄に突き落とすことができなくて、

どうしてこうも一緒に地獄に落ちてしまうくらいのやさしさなのか、この気持ちはなんなんだろうと思う。


だけどまあそうやって思えば、そこまで考えられたならば、節度を持って、わたしは向き合えるのではないかなあと思ったり
月1度なんだし
月1度の関係、ってそういうことだよね
しかも客。人対人ではない
いまそのへんの関係が、人間関係のバランスがいびつでおかしくなっているけれど、

いまはおかしい、ってちゃんと自覚しないとなあ。

 

見当違いなことその2

自分の涙。


そういう勘違いして期待を膨らませられてしまった相手に、やっとの思いでノーを伝えるとき、すごくストレスで、涙まで出る。


なぜわたしがいつも泣かなければいけないのか。


泣いてがっかりして、自分の愚かさに胸に手をあてなければいけないのは相手なはずなのに、相手はそんなつもりがまったくなくて、そういうことがあるたびに、寝耳に水だとか、

むしろわたしは都合よく利用できているとすら思っているから、

寝耳に水だと相手にされなかったり、
むしろ逆ギレされたり、説教されたり、

果てはハラスメントをされたり、


なのに自分はわけがわからなくなって泣いてしまって、わけがわからない。
なんの涙なんだろうと思うわけ

人にたいして泣いている
人のために涙を流している

そもそも自分を裏切っている人に、人としての心をそれでも信じて、泣いてしまう


わたしは自分のために、ちゃんと自分を大切にするために、涙を流せていない

 

こんな人のために、わたしがなぜ涙を流さなきゃいけないのか


こんな人ほどクズで、たぶん誰からも大事にされない、誰にとってもクズだから、
わたしがいちいちその人に別れを告げるまでもなく、


誰から見たってクズなのは分かるから、ほおっておけばいいのに、
そんな人に限って関わってしまって、相手にしてしまって
自分はやさしすぎる

 

こんなお城でしかいばれないから、お城でいばっている
その人がいまそうなっているということは、そういうことなのであって

 

ドラマ「君が心に棲み着いた」のシーンじゃないけど、
わたしもほんとに見てくれてる人から言われてみたい
はじめ見たときは正直ひいたけど、だけど、お前、変わったよ、とか
同僚から、少しずつ、よくなってきてるね、とか

 

もう、上だの下だの作って、いつまでもやってる世界にはいたくない
いつも下の役を引き受けてあげて、相手をたてるやさしさなんて、いらない

 

そこから抜けるために、わたしはここまで歩いてきたのだから

 

そういう人たちの手を振り払って、だけど振り払って進むときもひとりだった

 

そういうときには、その人たちは、肝心なときには、いなかったのだから
都合のいいときだけ荒らしにやってきて、恩を売ってひとりだけ気持ちよくなっているだけで

恩の返しが足りないとかなにごとかと思う

初めからいらないから


共通するのは、病的に自己愛が強い、「下」に見る人に与える(実際にはピントはずれだったとしても)ことで満たされていると錯覚できる人たちだった
わたしを悲しませる人、涙させられてしまう人、翻弄されたあげくわたしがいつも病んでしまう人には、驚くくらい共通した点があった

 

ほかの人とのごくごく普通な関係も、すべてを巻き込んで、自分の魅力で、わたしのこれまでのこれまでの人生も、持っているものも、染め上げ、塗り替えようとしてしまう。
この魅力的な自分がいれば、お前にはなにもいらないんだと信じ込ませようとした

それ以外のものに嫉妬するから、わたしは嫉妬させないように、その人のために服従した

 

自分の魅力を真顔で、ましてや初めて会った人にも、そうでない人にも誰にも同じように平気で語れたり、語ろうとする人は、やっぱり病的だと思う

「魅力」は人がどうその人を見るかに任せておけばいい話なのに、はじめから自分のことをこう見ろ、こう扱えとランク付けされたものを差し出し、

お願いしてもいないのに語り出すような人たち

 

それを、お城的な場所だったり、本来の役割とは遠い場所でやってればやってるだけ、さみしい人なんだなあと思う

 

そういうところふくめて自分は付き合ってたつもりなのに、わたしはわたしでその人の弱さを受け止めてきたし、わたしも弱さをさらけだしたし、これからも受け止めたいと思ってきても、

やっぱり耐えられない、もうさよならするしかないときがきて苦渋の決断をして別れを告げる
そんなとき涙が出る。

それはたぶん、いまさら涙を流したところで、そもそも伝わってなかったことが、ここでやっとはっきり最後の最後で分かるからだと思う。 


たぶん、伝わっていれば、わたしならば、ここまでなってしまったら、距離を離さなければいけないと決断して、それが苦しいことだと分かっていたと思うし、

むしろたぶん下手に分かっていたからこそ、
わたしがやさしさで、そのすれすれのところで踏みとどまることで、
ずるずると、苦しんでいく顔を見て、さらに支配している気持ちになれたり、自分がそこで大切にされている、って錯覚を味わえたんだと思う。


こいつは、こういうすれすれのところで、苦しんで、結局人にノーと言えなくて、その罪悪感でもっと自分の思い通りになるんだ、っていうのを知りに知りつくしていたんだと思う。自分が大事にされていると確認することで、愛を満たそうとする人というのは。


そういう人にとって、わたしのことを伝えることは、全然いいことがない。伝えたところで悪用される。

 

ほんとは泣かなくてもいいところで、なにに泣いてしまうんだろうって、


ほんとうは怒らなくてもいいというか、怒るに足るような相手ではないものにたいして、いまだに激しく怒ってしまって、

 

わたしはいつも矛盾している。

 

それ以外の涙は枯れて、
それ以外では、怒ることはあまりなければ、
なにも感じるようなところもない

 

だけど思い出すかのように、発作的に、こういう人たちへの激しい怒りがうわーっと湧いて、激しい怒りとわずかの悲しみがわく以外は、大きな喜びもなくて、空虚だ