緊張ちゃんとゆるみちゃん

ツンデレ隠居系女子の日記/東京→北東北に移住4年目

車社会という「設定」

いま下手に働くのは得策じゃないと分かっている。だけど、働きたくて、いや、ちがう、働きたいとか単純なことじゃなくて、もっともっと根源的な欲求がうずいて、しかたないけれど、ではどうやってそれを打開すればいいか分からなくて、方角が見えなくて、方向感覚、上下左右、すべてを見失ってしまっているかんじ。
これまでは、その生活が、やっと手に入れたかったものから、いつしか当たり前でこれでいいものに変わっていった。とくにそれに不満はないはずだった。
だけど、東京に行って、置き去りにしてきた魂の破片に触れて、ここにいる間にいつの間にか蓋をしてしまったり、葬り去ったりすることによって、なかったかのようにしてここに適合していたに過ぎない蓋が、ぱかっと全開になったままここに戻ってきてしまったことで、
ぱかっと開いたままでここで過ごすことの無防備さや、擦り傷に、体がひりひりするし凍え死にそうだし痛いということを、矛盾するようだけれど、本来感じるべき痛さを痛さとして、いま感じている。と同時に、その痛さの無意味さ、あほらしさ。ここではそんな痛みなど初めから知らないほうが、楽に生きられるような気がする。
ほんとうは、いつだってわたしは、わたしの意思によって、その缶詰の蓋を開けたり閉じたりできるはずなのに、ここの磁場は、そんなくだらない行為や感情は、さびれた国道の色あせたブックオフハードオフで、積もり積もった汚れた雪処分場よりも雑につまれているような、ごみ同然の色あせた古本やがらくたと一緒に、「ごみくず」という一緒くたにしか分類する必要性がないような、そんなかんじになってしまう。ごみくずの中から、とっておきのごみくずなど選んでたしなむ価値などないように。
日々だれかとすれちがうといっても、だれとすれ違ったかと思うと、車とたくさんすれ違ったなあと思う。人と人とがすれ違えることに、相手が車じゃなくて、人だから、気をつかったり、顔を見たり、配慮したり、緊張感が生まれたり……人とすれ違うことで生まれる当たり前のものが、ここには欠けている。わたしの根源的な欲求が、決定的に踏みにじられている。
車の中には、わたしの嫌いな密室の閉じた世界が広がっていて、閉じた世界の城(家)に住む人が、その閉じた世界の城の閉じてる具合や世界の単位をひきずったまま、車へと移行して、開けた場所に行っても相変わらず、閉じた世界の続きを当たり前のように、朝から晩まで飽きずに平気な顔してやっている。
わたしには、城から車から、並行移動しただけの集団に、薄いベールが張られているように見える。卵の殻のような薄いベールが、一つの空間に、たくさん、たくさん、張られているのが見えたとき、わたしの体は鉛のように重たくなる。幼い頃の家庭という密室を思い出して、その永遠に逃れられない感じを重ねてしまうからだろうか。
今日はいつもとちがった国道沿いのコーヒー屋さんに人間ドック帰りに寄ったけど、そんな自分のタイミングだからなのか、心の調整弁の開き具合や強さによるものなのか、たまたまそういう状況が客観的に存在したのか、あるいはどこがどう重なったのかは分からないけれど、そんな気持ちになって、せっかく開いた気持ちがしゅるしゅるとまたしぼんで、無力さを感じて、くつろげずに帰ってきた。
なんて言ってみるけど、とにかくしゃべっても価値観が合わないし、らちあかないし、つまんねー。すべてがすべてじゃないと信じたいけれど、だけどあまりの不発っぷりに、信じられない気持ちになるし、自分の中の裁判官が、自分にも厳しく裁くくらいに、相手のほころびを容赦なくあばき、切り刻み、頭のなかでぐるぐると反芻する。
そんな鬱屈とした気持ちだけが、たまっていくだけで、どうやって発散しようと努力しても、外にベクトルが向いて進んでいかない。内側にたまっていくだけたまっていく。「場面」というものがまったく展開しないから、当たり前なのだけど、本当にここでは場面が展開せずに、ちょっと展開したかなって思っても、また同じ場面に戻っちゃうかんじ。

小説でいえば、車社会という「設定」が、人とクロスする「展開」や「新局面」をうそくさくさせる。かっぱ寿司のカウンターでさえ、実際は人と人の袖も振り合わない。
雪がとけたら動けるようになるでしょうとか、ごまかされたくない。「春だ」ということにも、煙に巻かれて浮足立つなんてこともしたくない。もうちょっとあたたかくなったらやればいい、とか、雪でなにもできないからねえ、とか、ここは車社会だからねえ……とかそんな根拠のない台詞ばかりを飽きずに年がら年中、四季のせいにして先送りして同じところをぐるぐるするような人たちと一緒に、ごまかし合って生きていきたくない。