緊張ちゃんとゆるみちゃん

ツンデレ隠居系女子の日記/東京→北東北に移住4年目

お葬式

今日は朝から吹雪いている。

吹雪いているなー。そうやって窓の外を見つめながら煮出したチャイを飲んだ。

吹雪いているなー。ただそれだけ。


朝起きたら頭が痛くて、鼻水も少し出る。しばらくひきこもりだった人間が、昨日ジムに行くという外出をすると、こういうことになるようだ。

 

昨夜も、一昔前に見た日本映画を見て「卒業式」のような儀式をしていた。

初めから卒業式をするつもりはなくて、ただただ毎日、アマゾン動画で見たい映画を見て、だらっだらっと見ていたにすぎないのだけど、

たぶんこの気持ちも一過性のもので、風邪を引いてそのうち治っていくように、また過ぎ去ってしまうのだろうけど、

自分はいつも、音楽も映画も漫画も本も、そのときの気持ちに寄り添うものをほしがる傾向にあるから、

たぶんいまは、あのときの自分の気持ちを食べたいだけ食べて、

どうせおなかをこわして下痢してしまうのだから、

いま食べたいものを食べたいだけ食べようという単純な発想に基づいているのだけど、

いつもなんでもむつかしく考えて自分に厳しくする方向に向かってしまうから、

こういうふうに自分がなれるときは、大事にしようって思った。

 

昨夜は、タナダユキさん脚本監督の「百万円と苦虫女」を直感的に見た。

初めて見たのは、20代半ばのときに、仙台に住んでたときの近所のシアターだったんじゃないかなあ。


いろいろ事情があって実家を出ることを決めた女性が、100万円たまるごとに、新しい町に引っ越すというお話なんだけど、

初めてそれを見た当時のわたしは、その女性が行く先々を転々としなければいけない切実な事情とか、

家族と引き裂かれることによって起こる心の機微とか、それがその人の対人関係にどんなふうに影を落として、そんな極端でこっけいな「100万円たまったらこの町を出る」という行動に結びついているのかということとかはまったく想像するにはいたらなくて、


むしろ、海の家のアルバイトから始まって、山間部の農家に居候してもも収穫のアルバイトからの、とある地方都市でのホームセンターのガーデニングコーナーのアルバイトとか、めっちゃ楽しそうだなあ、すてきな人生だなあというふうに見ていた。


だけど、そういう旅するような人生には、「所在なさ」をかみしめることがあったり、

だからこそ通りすがりのだれかに、あるとき無性に自分のことをすべて打ち明けたくなってしまう瞬間があって、

うっかり恋に落ちてしまった自分を、乙女かよ、って自分であざ笑ったり、

後悔したり、全力で走り去ったりしながら、

でも、その人が迎えに来てくれることをかすかに期待してみたり……

でも、最後は、「ま、来るわけないか」って自分に突っ込みながら、ドーナツをかじりながら、また次の町へと向かう。今度こそはなにかにちゃんと向き合える自分になれることを信じて……

 

人はやっぱり、どんなにオリジナリティがあることでも、どこかで取り入れたイメージだったり、真似しかできないのかなあと、10年ぶりくらいにこの作品を見て思わされた。
これまでのわたしの根拠のない自信や展望も「100万円たまればなんとかなって次にいける」という、この作品の主人公・鈴子の視点によって支えられてきた点が大きいような気がした。
ああ、こんなにいまの自分に大きな影響を及ぼしていた作品なんだなあ、としみじみしてしまった。


海の家のバイトまでは体験してないけど(主人公の鈴子もあまり向いてなかったと言っていたから、そのイメージに潜在的に従っていたのかも)、

それからわたしも、田舎の山奥の桃ばっかりが広がっている桃園で桃ををもいだし、軽トラの荷台にも揺られたし、

栗園も、ぶどう園も、サクランボ園も長靴はいて入ったし、

田植えもしたし、お米も収穫したし、

ご当地ゆるキャラの中の人にもなったし、

農家や集落の人のおうちに住まわせてもらって、ごはんを食べさせてもらったり、だけど文化のちがいによる不安で恐い思いもたくさんした。

 

最後の最後で、村八分にあって村人たちから追い出されるという体験までそっくりなことをして、数えればきりがないけれど、
いいことも悪いことも、過ぎてしまえばわたしにとってどうでもいい、どっちでもいいと思えて消化してしまえていまもいたるのは、
鈴子の見たような景色をわたしも見てみたいし、鈴子の思いをわたしもしてみたいという気持ちが、

あの映画を見たときから、ずっと憧れとしてわたしのベースにあったんだなあということだった。


そして、村八分にあって向かった先はとある地方都市で、ホームセンターのガーデニングコーナーという……

当時は、次がガーデニングコーナーだったということは完全に忘れてしまっていたけど、まさにいま自分はそっくりそのままの順番で、そっくりなことをやっている。

村八分にされると、ほどほどの地方都市に行って、人は植物を育てたくなるのかもしれない。


なんというわたしのオリジナリティのなさ。

人は自分らしさや、自分の人生を大切にしろなんていうけれど、なにかのイメージがなければ結局なにもできないし、だれかの模倣をきっと知らない間にもしているんだと思い知らされる。


鈴子が恋をした森山未來くんから「自分探しですか?」って聞かれる場面があるけど、

それに対して鈴子が「むしろ自分はずっとここにいますから……」「探すよりも逃げてるだけですから……」っていう台詞が厳しくてとても好きだ。


わたしも、行く先々でよく「自分探し?」と聞かれたり、陰で自分探し系と言われたりしてきたけど、

自分はいやなくらいにここにいて、つきまとっていて、自分からは逃れることはできないとわかっていた。

だから、そういう面倒くさいことそのものから逃げたいという、ねじれた気持ちをいつも抱えていた。

 

毎日が旅するような生活や、そうであるがゆえに感じる「所在なさ」という言葉がどういうものなのかも知らなかった20代半ばだったころのわたし……

あれから10年、そういう世界の人の景色を見てみたい、感じてみたいという漠然とした憧れを、わたしはしっかりかなえていたのだった。


夢がかなっていたのに、その瞬間っていうのは、人は見逃してしまうものなのかもしれない。

それを感じられる瞬間は、たくさん、たくさん、たくさんあったのに、

あまりにも所在なさすぎて、それどころではなくて、必死すぎて感じられなかったけど、

いま立ち止まって、振り返ってみたら、あーなあんだ、ちゃんと夢がかなってたんじゃん、って思って笑ってしまう。すごく、すごく、笑ってしまう。

かなえたい夢に向かって、進んでたんじゃん、って。

その瞬間がつかめた、って気づけないくらい、必死に生きていたんじゃん、って。

 

たぶん、別の夢をかなえたときにも、きっとわたしはその瞬間はもう、うかうかしてられなくて、別の夢に向かって進んでいて、なにかに嘆いていることだろう。

 

これまでわたしは10数年間、なにかを成し遂げた人、第一線にいる人とかに多く会う仕事をしてきた。

人間すべてが未完成ではあるけれど、だけど取り上げる人はなんらかの分野において「完成品」になっていることが前提としてあった。

そして、その人が未熟であろうが、完成したものとして描くことが求められた。


だから、完成品ばかりに飽きちゃった、とか、自分も完成品になりたい、とかそういうことではなくて、

自分も、完成品かそうじゃないかなんて分からないけど、

外から眺めるだけではなくて、「当事者」としてしっかり生きたいと思った。


外から眺めて、この人はすてきだなー、生き方がいいなあ、とその仕事に一生懸命になってそう思えば思うほど、

じゃあ自分もそんな景色を見にいってみたい、そんなふうな景色を見たら、どんな気持ちが湧くのか、自分で体験してみたい、というふうに心と体が自然になっていった。

いまもだけど、まだまだいろんな「役」を演じてみたい。「当事者」として味わいたい。

 

憧れが現実になってしまったとき、それは思い出として色あせてしまう。

思い出の色彩もすてきだけど、いつまでもその色にひたってられない。

だけどいまは、その思い出と、次のシーンにいくまでの、どうやら限定期間みたいだから、

そうやって、あのときのクソみたいな感情も含めて、

丁寧に土に埋めて、お葬式を一つ一つしてあげようと思っている。