心に棲みついていた君へ
きょうはTBSの火曜ドラマ「きみが心に棲みついた」第6話をスマホのオンデマンドで見た。
「きみ棲み」のおかげで、次のまた火曜日(TBSなし県なので正確にはその翌日)までの1週間、まあ生きてもいいかな、という気持ちになる。
楽しみにしている連続ドラマが一つでもあるということ。それは生きる希望。
少なくともたぶん「きみ棲み」がある間は、わたしはきっと生きている。
かつて山間部で一人駐在員生活を送っていたとき、二週間に数回程度、当直勤務や会議のために、ローカル線で1時間半くらい揺られて支社に行かなきゃいけなかったんだけど、
これがとても憂鬱で憂鬱で……
あまりにも逃げたい気持ちが強かったのだろう。
パソコンや資料を入れた大きなリュックを駅のトイレに置き忘れたまま、
手ぶらで1時間に1本あるかないかの電車に慌てて乗り込んでしまっていることにも気がはらえなくなるくらい、
当時のわたしのメンタルは崩壊しかかっていた。
それでも握りしめていたスマホで、
わたしは当時やってたTBSドラマ「逃げ恥」から「カルテット」が放映されるまでの期間、
電車に揺られながら、それをオンデマンドで見ることで、
くすっと笑ったり、胸がキュンキュンしてしまったり、ぼろ泣きしたり……
そうこうしている間に電車はわたしを終点へと運んでくれたおかげで、
最後まで会社に向かうことができました(ちなみに荷物を忘れた件はJRから電話があって初めて気づき、一時間に1本あるかないかの各停で往復3時間かけて取りに戻り、会社に遅刻して迷惑をかけました)
話はそれてしまったけど、きみ棲みの話。
どんな人でも多かれ少なかれ過去の傷をかかえていて、その傷があるときふとむき出しになってどうしようもなくなってしまうこともあるけれど、
登場人物たちの一見、理解に苦しむような言動も、悪いクセも、痛さも、臆病さも、
傷を抱えているがゆえの個々の事情があって、
いまにいたっていて、
それがいいとか悪いとかじゃない肯定的な描き方がされているという安心感もあってか、
毎週、登場人物に出会える時間が、とっても楽しみなんです。
今回の第6話も、胸がキュンキュンしたり、ほろっと泣いてしまったりもして、すべての場面が好きなんだけど、
中でも最後、ニシナさん(向井理)がすがりついて離れない女性をふりほどき、
「ぼく、愛がないセックスのほうが興奮しちゃうみたいです」と一言言ってタクシーに乗り込む場面に、なぜかぞくぞくしてしまった。
それは、台詞そのもの善し悪しではなくて、その人がそう思うにいたった背景が丁寧に描かれていたからこその、
ほんとうに稲妻が頭に直撃するくらいのインパクトのある言葉で、
プロセスあっての登場人物の魅力とぞくぞく感が、おそらくあの一言に凝縮されていたように思える。
きみ棲みを見ていると、自分の心にもかつて棲み着いてしまった人のことを重ねずにはいられなくなる。
12年間という長い時間だったけど、
わたしも主人公のキョウコの首にいつもぐるぐる巻きにされているストールのように、常にしばられてた。
その人は、わたしと関わる男性関わる男性、いま振り返れば、仲を引き裂いて、トラブルをわざと起こして、人間関係に亀裂、対立構図を作ることで、
そこに自分がまるで「救世主」のごとく助けに入るシチュエーションが、病的なくらいとても大好きな人だったんだなあと思う。
人が争う場面が大好き。燃える。いつしか抑制がきかなくなって、自分で放火をして消火活動をするやばい放火犯のように、わたしの周りに火のないところにまで煙りを作って、放火をして、消火活動をする自分に彼は酔いしれてた。
だけどわたしは、わたしが未熟だから、わたしはいたるところで対人関係のトラブルを作ってしまうかと思っていた。
だからわたしは彼がいなければ何もできないやつだ思ってた。
でもいま振り返ってみれば、わたしが対立に巻き込まれてしまっていたのに共通するのは、いつも彼が入ってきたことによってだった。
火事が起こると、かならず彼がいつも消火活動にまっさきにかけつけて、懸命に消火活動に汗を流しているのだ。
しかし、そういう連続放火事件が同じ地域で相次ぐと、警察もさすがに不審に思うようになってきた。
わたしはもともと、争い事を好む人間ではないんだなあ、って最近やっと分かったというか、思い出した。
だけどなぜか彼が入ってくると、わたしは相手の土俵にわざわざおりて、誰かを憎んだり嫉妬したり、突き落としたり突き落とされたりと、いつもの自分では考えられないことに巻き込まれてた。
そうして彼は、わたしにいつもこう言った。
おれがいなければお前はなにもできないのだから。
おれの助けがあるから、お前はそんなクズでもやってこれてるんだ。
世の中の男で、お前を扱いきれる人間は誰もいない。
そんなお前を理解してやってる俺をありがたいと思え。
などなど。
だけどいつしか、この人は自分で勝手に争い事を作り出しているだけだと、現象を現象としてわたしが見られるようになったとき、
わたしにとってその人は心に棲み着いていた住人でもなくて、
その人も傷をかかえたまま大人になった、
ごくごくふつうのひとりの人間だというふうに見えるようになった。
そして、わたしがほんとうに家が火事で燃えて困っているときに、彼がそばに駆けつけてくれたことは一度もなかった。
わたしは一人で粛々と火を消した。焼け焦げた家を見て、一人で泣いた。彼がいなきゃなにもできないやつでもなかった。
それがすべての答えでもある。
重いなにかを抱えたまま、彼は大人になってしまったんだなと思った。
誰かを助けたり、自己犠牲したりすることによって、
ほんとうは自分を救おうとしている弱さを、受け止めてあげられるようになればいいね。
だけど、そんな簡単なことに気づけないくらい、
引き返せないところまで、重たくこじらせてしまった、
そういう生き方をしてきてしまった彼の過去を、いまさら取り戻すことは不可能だ。
せめてわたしは彼のために、
彼のマッチポンプのトリガーになってしまうわたしが少なくともまずは離れることが、
その人の幸せをいちばんに願うことだと思ったから。
彼はたぶん一生気づけないかもしれないけれど、
というかいくらわたしがなにを話しても、
とても抵抗が強くて、これは一生無理だなあと思った。
同時に、そのくらい彼はもう、下ろせないくらいの重い荷物をかかえてしまっているのだと思った。
だからせめて、わたしの荷物くらいは減らして、
つらい道のりかもしれないけど、どうせ歩くのならば、少しでもこれからの残りの人生、楽に歩いてほしいとわたしは願うことにした。
着込みすぎてしまった鎧の内側にいる、ちっぽけな自分に、君がみずから手を差し伸べられる日がくるといいなと、今日も、いつも、ちっぽけにわたしは願っています。