そんなに一人でもない
ただいま。今日はおうちに帰って、新鮮な三つ葉がむしょうに食べたかったから、スーパーで買ったばかりの三つ葉をのせて、親子丼を作ってお夕食に食べました。
先日の人間ドックで、自分のカラダの3分の1が体脂肪という、見かけによらず隠れ肥満児であることを指摘されてから、健康にはさらに気をつけるようになりました(ていうかこれまでも自炊も毎日けっこうがんばってて、粗食しか食べてないのに……)。
これを機に、バランスのいい食事のレパートリーをもっと増やしていって、
いつかは家族の健康を考えたオリジナルなタニタ食堂的なことができるようになればいいなあ……。
運動も公園や市の体育館とかでちょいちょいしてたけど、いつのまにかだらだらとメリハリがない弛緩してのびきったかんじになっていたのではないかと反省し、
ちょうどいい機会かなと思い、先日からちゃんとお金を払ってジムに通うようになりました。
あれから、海の底にずっといるような低迷がしばらく続いていたけれど、
底を打ち続けた弾みでまた、
わたしはなんだかんだでバランスの人なので、
いきなり海面にどぴゃーっと飛び出したくなって、
トビウオのようにじゃんじゃんバタフライしたりして、
だけどそれじゃあ疲れてきて、
でもまたしばらく一度赤い靴を履いて踊り出したら、止まりたくても止まれない少女のように泣きながら回り続けた結果、
強迫神経症的なかんじや、焦燥感にイライラしてきて、
んもおおおおおおと発狂マックスして、こんどは天井を打ってからというもの、
今日は目覚めたら、珍しくぐっすり眠れて寝起きからとても落ちついていて、
赤い靴が脱げなくて踊り続けているときにはできなかった
あれほど難しいペースダウンという状態が容易にできて、目に映る世界の解像度は標準になっている←イマココ。
相変わらず揺れ幅は激しいけれど、
だけど激しいなりに、どうせそうなったらもとに戻ってくるわけだし、
自然の摂理と一緒で、どうもならんし、
まあこういうもんだなあというふうに肯定できるまでにはなった。
こんなんじゃだめだー、って揺れ幅にいちいち動揺して自己嫌悪して全否定して首吊ってたときに比べたら超進歩。
思い込みに過ぎないかもしれないけれど、
神ぶるなと思われるかもしれないけれど、
わたしは人のだいたいの感情、たとえばこういう状況になれば人はこんな気持ちになるだろうというようなパターンは、
発達が遅れた分、取り戻したいという必死さもあったし、
分からないなりに人よりもそこは相当努力をした結果、
だいたい一通りは想像がつくようになった。
自分の感情も、
その体験がいくら特異で誰にも理解できるわけがないだろうと思っていることについても、
きっと同じような、相似形の感情を、
すでに誰かがとっくに感じたり悩んだりしていて、
克服しようとしたり、
またはそれを向き合う文学なり表現として昇華しようとしてきたりしている先人もすでにいて……
ようするに、何が言いたいかというと、
その人固有の特異な感情なんて、そうそう存在しなくて、
たいして自意識過剰でもなくて、
そんなにわたしたちは個人単位で存在しているのでもなくて、
一人でもなくて、
常にそういう意味では共有できるものを持っていて……
それははっきりと形にしたり、目には見えるものではないけれど、
そんなふうに考えると、
やさしいものに常に包まれているような一体感や安心感を持てるようになるというか、
わたし自身、だんだんそうなっていっているように思う。
分かってしまえば、法則がわかってしまえば、
なーんだ、そういうことか、とも思うのだけど、
いつからか、そういうやさしいかんじを心のどこかの片隅で持てるようになってきて、
最近はまた、飛び出しては引っ込むを繰り返しながらも、
自分の殻の外に出てみる、ある新しい試みをまた始めました。
うまくいくか分からないし、
だけど、自分の心と体が、そこに向かって踏み出してみようと動いたことを、わたしは一番に信じてあげようと思う。