緊張ちゃんとゆるみちゃん

ツンデレ隠居系女子の日記/東京→北東北に移住4年目

まぎれられなかった

やっぱり昨日の人間ドックの乳がん検診の超音波で、ああいうふうに言われてしまっては困る。いずれにしても、結果は3、4週間後に郵送されるわけで、その間は対処ができないわけだから。

自覚症状があって病院を受診して、その検査結果が出るのをやきもきしながら待っているのとはわけがちがう。

心配するのも想定の範囲内というか当然負うべき心配と、聞かされても聞かされなくても、いずれ手も足も出なくてどうしようもできない負担を負わせられてしまうのは、なんだかなーってかんじでもやもやする。


あらいぴろよさんの漫画「隠れビッチやってました」を読み終えて、ああ、わたしも自分の不安や満たされなさや著者のいう「底の空いたコンプレックスの段ボール箱」みたいなものを満たすために、

相手もずるくて都合がいいのならば、自分も都合よく相手によって満たしてもらおうというところが、彼女のように相手は600人もいなかったけどあったのかなあと思った。


だからむしろ、まじめで本気だったり、うぶすぎると困った。さよならして全力で走り去った。自分の弱点や汚い点を必死にアピールして、引かれてきらわれようとした。

だけど同時に、必死でたしかめてた。

 

同じくらいすかすかで、さみしくて、満たされてなくて、世の中を信用してなくて、昨日見た詩人の最果タヒさん原作の映画「夜空はいつも最高密度の青色だ」みたいに出会う同士みたく、

東京の夜空が黒ではなくて最高密度の青色に見えるくらいにからっと絶望しているところがあって、

そんななかでも、そういう者同士だからこそ、同じくらいの絶望度だからこそ、同じレベルでもしかしたら進んでいける、育んでいくことが、自分たちなりにできるんじゃないかという絶望系なりの、わたしも熱い希望を持っていて、そこだけは見失えなくて、見失って楽になろうとしたり、なかには過労死したり自殺したりして命を落としてしまう人もたくさんいるなかで、

そこの希望の部分だけは、東京の人混みのなかにまぎれたくなくて、というか、どうしてもまぎれられなくて、そこだけは汚れた外気にも、ましてや見失ってしまった人には触れさせたくなくて、

彼らはゲシュタポのようにどこにでもいて、奪って汚そうとするから、

わたしは必死で守っていたともいえる。


人からはずっと鈍色の分厚い空しか、もうすでに見失ってしまった人たちのもとには広がってないように思われていても、

たとえば100円くらいで売ってる、部屋にあるサボテンのブリキの鉢植えをふと見ると、ある日花をさかせて、「あっ」と2人で喜び合えるような、

絶望な空の中でも、本人たちの間では、ちょいちょい晴れ間がのぞく瞬間があるし、だからつらい日々を乗り越えていけるし、それは2人の間だからこそ見える……


「夜空はいつも最高密度の青色だ」で、全部あの低温でぐつぐつしたまま最後までいくかんじは好きだったけど、ちょいちょいはさまれる、多肉植物がふと花をさかせて「あっ」と2人が言って泡のようにすぐ消えていく瞬間とか、

東京の上空にぷかぷか浮いている飛行船をただ見上げるだけの場面とか、
ダサい歌詞を歌う売れないストリートミュージシャンの女性も作中ではちょいちょいはさまれてくるんだけど、あるときその女性を宣伝するけばけばしいラッピングカーが2人の目の前を横切る瞬間とか、


ひとつひとつがすぐに忘れ去られるようなどうでもよい出来事で、
だけど、もしわたしが、いつか「普通」や「まっとうさ」を、手に入れてしまったら、

もしくはいま手にいれつつあるのか、手に入れる方向に進んでいるのかも分からないけれど、

そうなってしまったら絶対に見えなくなってしまう大切なものが、その物語にはちりばめられていて、息が苦しくなった。


「久しぶりに東京に行って楽しかった」なんて言ってしまう日が来たとしたら、実際にそう感じつつあるわたしがいまここにいるわけだけど、

「東京は楽しい」としか想像できない人と一緒に、「楽しいね」なんてやっぱり手を取り合って共有するかと思うとぞっとする。たかだか言葉にすぎないことに底の浅い嫉妬を向けられた日には落ち込んで、ああここにも居場所はないなとふさぐ。


東京(あるいは、トウキョウ的な場所や生活と置き換えてもいいと思う)は楽しくなんて全然なかったし、好きじゃなかった。

だけど、華々しいイメージを想像するだけで終わってしまった人や、低温でぐつぐつ続くようなかんじとかを同じように実感したわけではない人たちに、わたしの「好き」を語りたいとは思わない。
(それは、わたしが北東北の山間部に2年間住んで、彼らがわたしに最後まで「好き」になることを絶対に肯定してくれなかったたぐいと似ていた。彼らは彼らで、彼らなりの低温でぐつぐつする感じを、世界に一つしかない自分たちだけのものとして信じ続けていつまでも感じていたいのだと思った)


どこにいってもわたしは浮いてしまって、はじき出されてしまう系で、枠にはまりたくてもはまれなくて、ひとりぼっちになってしまって、
どこに行っても、お金があってもワープアになっても、ワープアからしたら羨むような地位や学歴があってもなくても、社会的に賞賛されることがあったときもなかったときも、虚しくて、自分は変わらないわけだから、自分は自分のままで受け止めるしかないんだから、

場所なんてどこでもよくて、ほんとうは場所なんて関係ないことを、いやなくらい分かっているし、
だからいまの場所のむなしさも、どこか別の場所にいけば、恵まれた境遇で育ってればとか、お金があれば、とか、もっと専門性やキャリアを極めれば、解消されるたぐいのものではないなんてことも、いまさらどうでもいい。


どこに行ってもわたしは、低温でぐつぐつ煮込まれながら、じんわり感じるあたたかさが好きだ。いまの厚ぼったい雪空の日でも、たまにのぞく晴れ間みたいな瞬間が好きだ。


そんな瞬間を、そのときどきで出会った人と、といってもほとんどが一人で、詠み人知らずの一人芝居のようなものだったけど、その詠み人知らずな雑草のような詩も、けっこう一緒に作ったりしてきたものだった。


その詩は、相手にすら、誰にも、どこにも残すようなたぐいのものでもない、たまたま見つけた飛行船のように、けばけばしいラッピングカーのように、

2人の目の前を過ぎ去っていったものだったけど、

自分すら、別に残そうとか、積み上げようとか、未来につなげようとか思ってやっているものではなかったから、
そんなものとは両立できるとは思えないし、
だから過ぎてしまえば、お互いにとっての「都合のいい人」というものにすべてがのっぺらぼうのように変換させられてしまうし、


都合のいい人に愛だの恋だのまぶすことは、前提からして無意味だし、


その人に顔がついていたのかいないのかさえ思い出せなくて、

名前や顔はそのとき知っていたけれど、いま知っている必要性はなにもなくなっていて、


だけどわたしは、いつでも積みあげたくて、
たしかなものにしたくて、
愛されるためだったら、いくらでも愛そうとして、それが間違った努力であることも分からずに、
間違ったもの同士がひとつになって進んでいったけれど


だけどいまなにひとつ、残らなかったよ

進んでも、いなかった


わたしも顔なし、のっぺらぼうでいる以上、
相手も顔なし、のっぺらぼうに見えるし、

その人のために、顔なし、のっぺらぼうという、都合のいい自分になることで、

めんどくさいことが嫌いな、完成形しか愛さない、

そんな大人で物わかりがいい自分をわたしはわたしでやってみたいという都合のよさもあって

ほんとうは生々しくて、汚くもあり、めんどうくさい現実から、

それぞれがそれぞれに都合がいいばらばらの方向に向かいながら、目をそらしていた

育む手間を放棄した

そういう都合は一致していたのかも

 

わたしは目をそらさずに育みたかったけれど

最低のなかにこそ最高があると思っていたけれど

 

けっしてそこから育みをスタートさせたい人がすべてじゃないし

いつまでも自分のために顔なしののっぺらぼうでいてくれる存在を、金魚鉢みたいに眺めたり抱えたりしている自分を愛していたい人もいた

そういう方向が一晩で分かることもあれば、長い時間をかけてやっと気づくこともある