緊張ちゃんとゆるみちゃん

ツンデレ隠居系女子の日記/東京→北東北に移住4年目

お花とか植物とかドラクエとか

それからスマホで、元テレ朝アナでフラワーデザイナーになった前田有紀さんの対談を読んだ。わたしもお花と植物が好きで興味があって、おもしろくて上下けっこう長いけど一気読みしてしまった。
読んでて、ある人から言われたこととつながった気がした。どんな道でもいいから、専門を極めてみるということ。別にそれは、あらゆることでもいいというのがポイントで。

自分には、「これ」というものやこだわりがあまりない。
前田さんもそうだけど、お花や植物が好きだからといって、花屋に勤めたりはしたけれど、花屋になりたいわけではない。そんなかんじ。
世の中には、「これ」と決めたらこれの道に突き進む人もいるけれど、たぶん、そういうほうが、周囲の理解も得やすかったり説明もつきやすいしレールに乗りやすいのだろうけど、わたしはどちらかといえば、「お花」も「植物」も、一つのアイコンだったりきっかけに過ぎなくて、だけど、たまたまご縁を感じたアイコンをきっかけに、まだ見ぬ世界を見てみたいな、その場所に立ってみたいな、というかんじ。
「夢」というものがあるけれど、わたしは夢を先に言っちゃったら、夢じゃなくなる気がする。分からないから「夢」。そういう意味では、わたしには夢がある。夢を常に人に具体化して有言実行してないと気が済まない人たちには、お前には夢がないなあと言われてしまうけど、わたしにはそういう人たちには言わないけど、貪欲なくらい、たくさんの夢がある。
たとえばわたしは、10年弱勤めてた会社を辞めて、あれよあれよと東北の山の中で2年間移住生活したのだけど、あるとき当たり前のように山を歩いたり、というか山しかないから山の中や堆肥のにおいに顔をしかめながらあぜ道をえっさほいさと靴を泥だらけにしながら毎日歩いたり、疲れたり冷えたから地熱でポコポコする温泉に入ろうっていって入ったり、地面も活火山だから普通に触ると熱かったり蒸気がぴゅーぴゅー出てたり、
クリーニングしかできないスカートをはいていた日に限って、硫黄でどろどろの温泉を頭から丸かぶりしてしまった日には、銀座をキメて歩いていた時代の服や革靴なんてこんなところでは全く意味を持たなくて、わたし、こんなとこでいったいなにやってるんだ、どこにかっこつけたいんだ?自分に?まだ出会わぬ誰かに?それとも魂を置き忘れてきた高円寺に?東京に?そもそも魂はどこにあるの?みたいな気持ちに常になる。
だけど、あらゆる気持ちがたくさんすぎて手に負えなくなると、あらゆるものが手放せて「いまただそこにいること」が答えになる。幸せとかポジティブなものを感じる力が、自信のなさゆえに鈍くなってしまいがちなわたしだけど、わたしもあのとき、「あ、もう夢がかなっていたんだ」っていまさら思い出したりした。こんなところで暮らしたい、という夢。
「いま」を一生懸命になりすぎて、いまより前に漠然と夢見たことをわたしは一瞬にしてすぐに忘れてしまうけれど、漠然と夢見たことを、気づいたらそうやってかなえていて、すでにそこにいたよ、おい!みたいに自分につっこんでやるのって、これはとても幸せなことなのかもしれない。というか、幸せなんだなと思う。鈍いので、そうやって言ってあげないと分からなくなっちゃう。
前田さんの対談を読んで、勇気がわいてきたから、今日はそれがきっかけでお布団から起きた。
こんなふうに暮らしたい、わたしなにやってるんだろう、どこまで来ちゃったんだろうと思いながら、あるときふとそこに立ってることを「あ、それが夢だったんだ、わたし」って気づく幸せを味わうこと……たぶんそれは、○○になりたい、とか、○○の専門家になりたいとか、常にゴールを設定して無駄なく動こうとする世界にいる人には見えない価値なのかも?しれないけど、わたしは、「だから小説を書く」という人と似ているのかもしれないけれど、見えないから追いかける価値がある、ゴールが見えないから行ってみたいんじゃん、ってこれまでもあらゆるものにだからこそわくわくしてきた。
ドラクエじゃないけど、たぶん、それが、花なのか植物なのか、コーヒーなのか、お庭なのか、香りなのかわからないけれど、ふってくるいろんな武器やアイテムを使いこなしながら、あ、わたしはここにこうやっていたかったんだ、って思う瞬間を楽しんでいくのだと思う。これからわたしはどこにいるのかはわからないけれど、いたいところにいる、ということはたしかだ。