緊張ちゃんとゆるみちゃん

ツンデレ隠居系女子の日記/東京→北東北に移住4年目

変わる 変わらない

ここしばらく、「変わってないね」という言葉がとても怖くなってしまっていた。

つい最近までわたしは、元同期のA君から毎日のように「あなたは変わらないね」ということをLINEで責められ続けていた。

お前はいつも同じ過ちを繰り返して、どれだけばかでまぬけで学習能力がないのかということを、鋭い言葉と長文や、うんこな絵文字やスタンプなどを交えながら毎日、散弾銃のように朝から夜中にわたって、浴びせられ続けた。

それに対して、A君は、自分がいかに自己努力によって変わっていったか、日々進化しているか、そして今後もより進化していきたいかということについて、わたしに意気揚々と語るのだった。わたしがそれにダメージをくらってることなんて、まったくお構いなしに。

A君に「そういうこと言われると傷ついたり、落ち込んだり、自分はだめだめだともっと思って死にたくなってしまうからやめてほしい」と言っても、A君は弱みをつかんだとばかりに、さらにわたしを傷つける言葉を先鋭化させていった。

わたしが一方的に傷つけば傷つくほど、A君はさらに(本当はわたし以上に彼は自信が極端にない臆病者だと認識していた)空虚な自信を誇大化させて、勢いづいていくかのようだった。これじゃ、お互いにとってなにもよくないなと思った。

A君はここ数年は、仕事が順調で攻め攻めな時期だというのは知っていた。だけど、そうではなかった時期のA君のこともわたしは知っていた。

わたしから言えば、そんなA君は全然「変わっていない」。

彼が「自分は変わったんだ」「もう昔の自分じゃないんだ」と、そう思いたい気持ちまでは分かる。だけど、そう証明するために、人を「変わってない」と罵倒までしなければ、自分の進化を感じられないなんて、それじゃ全然進化したことになってないよ、ダサってわたしは思った。

自信がなくて臆病者なA君は、けっきょく全然変わってないよ、って思った。ただ、カセットのA面がB面になって、オセロの白が黒に変わったりしているだけで、A君、あなたはあなたのままだよ、って思った。

仕事が順調で攻め攻めのA君を仮に「A面」とすると、わたしは「B面」な時期にA君と出会った。A君はつねに怯えてて、自分をうまく出せなくて、能力はあるのに人よりも自信がないことを個人的には損していてコンプレックスに感じていたようだけど、その過剰なまでの謙虚さや思慮深さは周囲から人柄として受け入れられて、親しまれていた。そんな彼はわたしも好きだった。

B面の時期に出会ったA君が、いつしかA面になったとき、これまでの弱さが、鮮やかなほど反転し、攻撃に転じた。正直、彼がこんな極端なA面とB面を持っていたなんて知らなかった。

たぶん、そこそこ距離を保てている人には、彼は相変わらず「いい人」のままだったのだと思う。だけど、わたしみたいに近づきすぎてしまった人にとっては(A君にとっては、それが唯一わたしみたいだった)、見るに堪えない姿になってしまった。

A君にとっては、自分のB面も全部出したんだから、自分のA面も全部出したっていいはず、と思ったのだと思う。だから、わたしが突然、彼がズケズケ言い出して攻撃モードに転じられて傷ついてしまったとしても、彼にとっては当たり前の地続きな「自分」だったのかもなあと思うと、そこまでは受け止めきれなかったいたならさをわたしはいまも責めたり、いや、だけど、それじゃあわたしの身も心も持たなかったわけだし最後は離れてよかったと思うし、なにより、それが分かっていながら自分はずるずるなにやってたんだろうな、ばかか、と思ったりいろいろする。

 

先日東京でお世話になった先輩Tさんと会った。わたしはTさんにとても会いたかったにもかかわらず、会うのが恐かった。会ったところで、以前と変わらず同じ失敗を繰り返して、進歩がない、変わってない、と指摘されて、いよいよ見捨てられてしまうのではないかと。そんなふうに傷つくのなら、見捨てられることを先送りしていたほうがいいのではないか、とか思ってた。だけど、せめぎ合っていた会いたい気持ちにそれが勝った。

それもあったし、最近は「自分を変えよう」とかいう風圧も強いけど、人の本質はただただ変わらないということだと思ったから。

冒頭のA君も、やなやつはやなやつなのであって、わたしの中のやなやつも、やなやつのままなのだ。

わたしは小学校高学年のとき、「清少納言」というあだ名をつけられて、クラスの女子全員からいじめられて、卒業式まで無視され続けたことがある。理由はまるで清少納言のように、頭がキレるけど、性格が悪くていやみったらしいヤな女だったからだ。「女の嫌いな女」という言葉もポピュラーになってない頃の、でもまさに典型で元祖みたいな感じで、クラス中の女子から嫌われてしまった。

だけどいまは、表面が裏面になったところで、清少納言清少納言で変わらないなあと思ってる。

Tさんから、「あのころと全然変わってないね」と言われて、わたしはとてもうれしかった。あのころも甘くも苦くもすっぱくもしょっぱくもあったけど「変わってない」ということが、もう全然恐くもなんともなかった。変わってても、変わってなくても、言葉なんてどちらでもよくて、言葉じゃないところでわたしは安心していた。

 

MちゃんやAちゃんやKちゃんに会うのも恐れていたけれど、その恐れはまったくピントはずれだった。

自分の恐れや自信のなさを、相手に攻撃や支配をすることで解消しようとする世界は、どんなにその片鱗をまだ探してしまおうとしてしまっても、もうどこにも見当たらなかった。

たとえそれがぐるぐる回っている情けない思考のループや、繰り返してしまう過ちだったとしても、執着だけでしがみついているものがあったとしても、それに善や悪とかあらゆる名前をそこにつけなくても、いったん荷物をどこかに置いて、どこに置いたのかも忘れたまま、わたしは自由に世の中にアクセスしたり、行って帰ったりできるんだなあと思った。